75年前の8月6日と9日。広島と長崎に人類初めて原爆が投下されて合わせて約21万人(1945年末の推定)もの人々が死んだ。被爆者の高齢化が進む中、いまだに白血病など、その後遺症に苦しむ人々がいる。そのような中で、広島地裁は7月29日、広島への原爆投下後に降った「黒い雨」による健康被害を受けたのに県から被爆者健康手帳の交付を受けられなかったのは違法だとして手帳の交付などを求めた訴訟で、原告側の主張を認め、84人全員への手帳交付を認めた。当たり前といえば、当たり前の判決だが、原告らの提訴が被爆後70年もたった5年前となった背景には「被爆者差別」があったという。
それにしても、なぜこのような問題が放置されてきたのかという思いは残る。一方で、3年前に国連で締結した核兵器の開発・生産・保有・貯蔵等を禁止する「核兵器禁止条約」について、安倍晋三政権は、米国の「核の傘」の下にあるとの理由などから唯一の被爆国であるにもかかわらず、日本は、核兵器禁止条約の批准はもとより、署名すらしていない。このようなことで「核保有国」と「非保有国」との橋渡し役などはとてもつとまるはずもない。被爆75年に当たり、なぜ2度も原爆が落とされたのかを考えた。
日本の敗戦直後の様子を描いた「敗北を抱きしめて」でピュリッツァー賞を受賞したマサチューセッツ工科大学名誉教授のジョン・W・ダワーは2013年8月に翻訳が出た「忘却のしかた 記憶のしかた」(岩波書店)の論文「被爆者ー日本人の記憶の中の広島と長崎」の中で原爆投下を論じている。
米国人に「良い戦争」と刻み込まれた原爆投下
ダワーはまず、「第2次大戦は、米国の大衆の意識に『良い戦争』として刻み込まれている。これはけっして変わることはないだろう。ナチスドイツと軍国主義的な日本の脅威を根絶やしにすることは、偉大で必要な功績であり、米国はそれを実現する上で、主要な役割を果たした」と書く。その上で「日本の2つの都市への原爆投下は、この『勝利した良い戦争』の物語に、こぎれいにはめこまれている。この語り口によれば、日本の軍国主義指導者に降伏を説くには、原爆が必要であり、日本本土を侵攻しようとすれば、失われていただろう無数の米国人の命を救ったことになる」というのが,米国が原爆投下を正当化する際の「標準的台本」だという。
原爆投下を「正当」と考える米国人はまだ多い
ダワーのこの指摘は、米国人に対する世論調査で裏付けられる。
原爆投下直後の1945年のギャラップ調査が米国人の85%が原爆投下を「正当」としていた。「被爆75年」に当たる今年、NHK広島放送局が実施した日米の18歳から34歳までの若者を対象に実施したインターネット調査によると、75年前に米国が原爆を投下したことについて、米国の若者は41・6%が「許されない」と答え、「必要な判断だった」と答えた31・3%を上回った(8月3日、NHK NEWS WEB)。
5年前の15年4月、米民間調査団体の「ビュー・リサーチ・センター」が発表した日米の世論調査で、広島、長崎への原爆投下について米国人の56%が「正当だった」と答え、18歳から29歳の若者は47%が「正当だった」と答えている。65歳以上ではその数は70%に上っている。調査方法が異なるため単純な比較はできないが、米国の若者については、この5年間で「正当だった」「必要な判断だった」との答えは、16ポイント下落しているものの、まだ「原爆投下正当論」は幅を利かせているということだろう。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分。
約7時間前に「原爆を投下せよ」との命令をグアム島の戦略爆撃司令部から受けてマリアナ諸島のテニアン基地から飛び立ったB29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、人類がこれまでに経験したことのない大量殺戮の残虐兵器原爆を広島市の中心部に落下傘で投下した。この原爆はウラニウム爆弾で「リトルボーイ」と名付けられた。長さ3メートル、重さ4トンの原爆は、投下されてから43秒後、推定576メートル上空で爆発した。「エノラ・ゲイ」は機長で、作戦指揮官であるポール・ティベッツ大佐の母親の名前だった。
保阪正康氏の「日本の原爆 その開発と挫折の道程」(新潮社)によると、エノラ・ゲイの偵察機の機長、チャールズ・W・スウィーニーは著書の中で「下を見ると、わき上がる汚れた茶色い雲が、永遠に都市に覆いかぶさっていた。都市全体を覆い始めた煙の広がりの隙間から、炎が次々に立ち上がるのが見えた。垂直の雲は急速に上昇していた。一瞬のうちに雲は9000メートルに達し、まだまだ上り続けた。上昇するにつれ、そのてっぺんには巨大な白いキノコ雲が形成されていた」と書いている。
スウィーニーはこの時の心理を「もう遅い。もう引き返すことはできないのだ。私たちのこの爆弾が、その目標に対して、そして私たちに対してーどんな影響力を及ぼすことになるのか、完全に把握しているものは一人もいなかった」と書いた。そのスウイーニーこそは、3日後に長崎市に プルトニウム型原子爆弾ファットマンを投下したB29「ボックスカー」の機長で指揮官だった。スウイーニーは引き返すどころか、再び繰り返した。
「人類と共存できない悪魔の核兵器」
広島市安佐南区の八木義彦さんは当時、11歳だった。爆心地から約1・5キロの白島国民学校で被爆した。ぺしゃんこにつぶれた木造校舎から抜け出し、迫る炎から逃げた。途中、放射性降下物を含んだ「黒い雨」を浴びた。父ときょうだい4人の行方は分からない。母は戦時中に病気で亡くなっていた。戦後、兄や妹と必死に生きた。父が残した貯金はすぐに消え、カエルやスズメの卵など、何でも食べて飢えをしのいだ。
14歳で自転車店で働き始め、被爆者であることは話さなかった。94年に60歳で食品会社を定年退職。その翌年、区切りにしようと、家族5人の名をやっと墓石に刻んだ。2年前に原爆症と認定され、治療を続ける。いつ発作が起きるか分からないが、地元の小中学校で被爆体験の語り部を続けている。八木さんは言う。「何年たっても死の恐怖から逃れられない。原爆は悪魔の兵器。人類と核兵器は共存できないのです」(朝日新聞デジタル2015年7月27日)
原爆による45年末までの死者は、広島14万人、長崎7万4千人。その後、白血病やがんといった原爆症を発症して亡くなった人も多く、正確な犠牲者数は不明だ。厚生労働省によると、被爆者健康手帳を持つ人は13万6682人(2019年3月末)いる。
この広島での死者の中に米兵12人もいた。
広島原爆投下の9日~12日前、呉軍港などを空爆して米爆撃機5機が撃墜された。パラシュートで脱出した米兵15人が捕虜となり、3人は事情聴取のため東京に連行された。残りの12人は爆心地に近い広島城周辺の日本軍施設に分散収容された。原爆投下で、12人全員が死亡。その遺骨はこっそりと米国に返還された。この事実を日本、米国両政府は公表せず、1977年、広島の研究者が外交史料の中から発見、ようやくその事実が明らかになった。2015年の8月6日、松井一実広島市長は、「平和宣言」の中で米軍捕虜の原爆死について初めて言及した。
日独米で核開発競争
「日本の原爆」によると、核分裂反応は、第2次世界大戦が勃発する直前の1938年(昭和13年)12月末、ドイツで発見された。原子物理学者オットー・ハーンとフリッツ・ストラスマンが実験で、中性子をウラン235の原子核に当てると、原子核が分裂し,大きなエネルギーを生むことが分かった。これが原子爆弾の基本的な原理である。当時、ドイツには優秀な原子物理学者が多くいた。ナチスによるユダヤ系市民への迫害を逃れてドイツから米国に亡命していたアインシュタインら科学者たちは39年、「ドイツより先に原子爆弾を開発すべきだ」と訴える手紙をルーズベルト米大統領に送った。
これが原発開発の引き金になった。ドイツでも開発が進められ、日本でも陸軍は理化学研究所の仁科芳雄らが、海軍は京大の荒勝文策のもとで研究が進められていた。しかし、肝心のウラニウムが手に入らないなどの理由で研究は頓挫していた。仁科らは「米国もすぐには原爆を完成できることはない」と甘い見通しを持っていた。
米国は1941年12月6日、日本軍よる真珠湾攻撃の少し前に、「ウラニウムに関する諮問委員会」をそのまま発展させて、原爆製造の一大プロジェクト「マンハッタン計画」行うことを決めた。米国は開戦前から原爆開発計画をスタートさせていた。正式には42年8月に「マンハッタン計画」が始まった。陸軍のグローブス将軍と、物理学者のオッペンハイマーが指揮。45年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験「トリニティ実験」を成功させた。核分裂の発見からわずか6年半後だった。
投下に向けての動きも慌ただしく進んだ。
45年4月に17の投下候補地が検討され、5月11日には京都、広島、横浜、小倉(現・北九州市)の4市に絞られた。7月25日、日本空襲の拠点となっていたテニアンのB29爆撃機部隊に、広島、小倉、新潟、長崎のいずれかへの原爆投下が命じられた。土壇場で京都が外された理由について、米陸軍航空軍史は「神道や文化において、日本人にとって重要であるため、スティムソン陸軍長官の主張で外した」と記す。8月9日の攻撃は小倉が第1目標だったが、上空の視界が悪く、第2目標の長崎に投下された。
原爆投下理由に「早期終戦説」「対ソ連説」「人体実験説」など
では、米国の勝利は沖縄戦勝利で決定的だったのに、なぜ米国は原爆を使ったのか。原爆投下の翌日、トルーマン米大統領は全世界に向けて広島に原爆を落としたことを「声明」の形で発表した。須田諭氏の「原爆が投下された理由」(メトロポリタン新書)によると、大統領の声明は以下のような内容だった。
①広島に投下した爆弾は原爆で、史上最高といわれるグランド・スラム爆弾(ナチスを降伏に導いた超大型爆弾)の2千倍の破壊力がある②真珠湾攻撃で戦争が始まった。日本は膨大な攻撃を受けているにもかかわらず、戦争を終わらせない。戦争を終わらせるために原爆を投下した③ポツダム宣言を拒否したので、日本との戦争を終わらせるために、原爆を投下した④最終通告をこれ以上拒否するのならば、さらに原爆を投下する⑤日本は極東の戦争責任者である。だからこらしめるために、原爆を投下した⑥成功のために、最盛期には12万5千人が施設で働き、約22億ドルが費やされたーなどである。
須田氏によると、②は現在でも一般的に信じられている。しかし、日本はすでにいつ降伏してもおかしくない瀕死の状態だった。「原爆以外に日本を降伏させる方法はなかったのか」を考えると、「その場しのぎの稚拙な口実である」と批判。また、「トルーマンが原爆投下の指令を出したのはポツダム宣言の前日の7月25日なので、③の言い分は通らない」などと、としている。
「投下の理由」については、さらに、原爆の威力を測りたかったとの「人体実験説」、旧ソ連との対立を見据えて力を誇示したとの「対ソ連説」、真珠湾攻撃をした日本人への憎悪という「人種差別説」など諸説あり、これまで論争の的になってきた。
米軍は次の原爆も準備していた。米国立公文書館に残るグローブスの関連文書によると、8月24日以降の最初の好天時に原爆を投下するための準備が整うよう進められていた。
なぜ75時間後に長崎に原爆が落とされたのか
広島の原爆投下の8月6日午前8時15分から次の長崎の原爆投下9日午前11時2分までの間にはほぼ75時間の間隔がある。この75時間の間に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を受け入れることはできなかったのかーと保阪正康氏は「広島から長崎までの75時間」で指摘する。
保阪氏によると、陸軍や海軍は広島に原爆が投下されたあと、研究者らを伴い広島の事情を調べるが、6日は「原爆と断定するには決め手がない。もう少し様子をみたい」という理由で、なかなか結論が出せなかった。また仁科らは「米国の原爆の研究は進んでいるが、今次の戦争では開発できないだろう」と結論していた。6日午後8時にラジオで「広島に新型爆弾投下」のニュースを流した。これを聞いた物理学者の中には「もしかすると、原爆かもしれない」と疑った人もいた。
翌8月7日の午前1時(日本時間)、トルーマンは「大統領声明」を発表。この中で「広島に原子爆弾を落とした」ことを明言した。7日の夜が明けるころ、鈴木貫太郎首相は迫水久常内閣書記官長から「アメリカが原爆だと言っている」との報告を受け、東郷茂徳外相も同盟通信や外務省から報告を受けた。当時、報道管制に当たっていた内閣情報局は早朝から部長会議を開き,この事態の報道をどのようにするかが話し合われた。外務省出向組からは「原爆投下が事実なのか否かの真相を明らかにすべき」との考えだったが、陸海軍省からの出向組は「大統領声明は謀略かもしれない。原爆使用を明らかにすると、国民に衝撃を与え、戦争指導上まずいことになる」と主張。「原爆」という言葉を使うことには特に陸軍が猛反発し、結局「新型爆弾」という言葉を使うことにした。
7日午後3時半の大本営発表は「昨8月6日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は攻撃に新型爆弾を使用せるもごときも、詳細目下調査中なり」という簡単なものだった。
昭和天皇には7日午後、遅ればせながら、「広島への原爆投下」について木戸幸一内大臣からやっと報告を受けた。この間、陸海軍からの詳しい報告はなかった。その規模や被害について天皇が知るのは8日午前零時をすぎてからである。
ソ連参戦、長崎への原爆投下、天皇の1回目の聖断
9日午前3時、迫水書記官長は同盟通信からサンフランシスコ放送が「ソ連が対日宣戦布告をした」ことを聞いた。鈴木首相、東郷外相、迫水書記官長の3人が首相の私邸で密談し「この内閣で戦争終結の結末をつける」ことを話し合った。この日午前10時半、宮中で首相、外相、陸相、海相、陸海の総長の計6人での最高戦争指導者会議が開かれ、鈴木首相が「広島への原爆投下、ソ連の参戦で、ここに至ってはポツダム宣言受諾以外にはない」と口火を切った。
しかし、この日午前11時2分、B29「ボックス・カー」が8500メートル上空から長崎市の中心部に向けて「ファットマン」と呼ばれる原爆を投下した。今度はプルトニウムを使った原爆だった。当初は小倉(現在の北九州市の一部)に投下の予定だったが、小倉上空は雲が多く,3回、投下を試みたが断念し、第2目標の長崎に向かった。
午後1時までに、最高戦争指導者会議で長崎への原爆投下が告げられた。閣議の後、9日午後11時50分から、今度は天皇も出席してポツダム宣言受諾をめぐる最高戦争指導者会議(御前会議)が開かれた。8月10日午前2時半「速やかに戦争を終結せしめたい」との昭和天皇の第1回目の「聖断」が下った。これらの経緯をたどると、開戦時と同じように当時の日本のトップリーダーたちの「何となく、ズルズル」という何事にも決断できない体質が浮かび上がる。
原爆の威力の報道は降伏後 米当局の検閲により隠蔽
ダワーは「忘却のしかた 記憶のしかた」で「日本人のみが核による破壊を体験した。そして、直後の数年間、彼らだけがこのことを公に語ることを許されなかった。米当局は占領下の日本で、原爆に関する議論のほぼすべてを検閲で禁止した」と指摘した。
原爆投下後、「本土決戦」を強く主張する軍部は、被害をできるだけ過小評価し、国民への発表を遅らせた。「大元帥」である天皇への報告ですら大幅に遅れた。原爆の威力についての報道は降伏後だった。一方、原爆を落とした米国は占領政策を円滑に進め、連合国の残虐さが日本人に知られることを恐れていた。原爆投下や被害・影響などの重要な情報はメディアへの検閲により隠蔽され、国民に情報は達していなかった。
朝日新聞デジタル(2015年7月27日)によると、広島への原爆投下について、朝日新聞東京本社版は投下翌日の8月7日付で「広島を焼爆」の見出しで伝えた。だが、「焼夷弾爆弾をもって」攻撃され「若干の損害を蒙った模様」などとし、記事も短かった。翌日は大本営発表に基づき、「新型爆弾」と大きく報じた。9日の長崎への原爆投下については、12日付になって軍の発表から「被害は比較的僅少なる見込み」と伝えた。
トルーマンの演説を紹介する45年8月11日付の記事で「原子爆弾」の言葉を使ったが、爆発の威力を詳細に報じたのは戦争の終わった16日付。被害は25日付で「広島に取り憑(つ)いた“悪霊”」との見出しで、被爆者の白血球が減るなどの症状に触れ、「ウラニウムは人体に悪影響をおよぼし、死者の増加するのもこのため」と伝えた。
しかし、9月に入ると連合国軍総司令部(GHQ)が日本国内の出版物の検閲に乗り出した。朝日新聞東京本社は18、19の両日に発行停止になった。「原爆使用は戦争犯罪」と訴えた政治家のインタビュー掲載などが理由だった。以後、占領下では広島、長崎の原爆被害についてほとんど報じられなくなった。
一方、米国の新聞は8月7日付で広島への原爆投下を報じた。ニューヨーク・タイムズは「新時代の幕開け」と見出しを付けた。UP通信は8月24日配信の記事で、オッペンハイマー博士が「日本で報じられているような放射能の後遺症を否定している」と報じ、「日本人は同情を得ようと原爆の恐怖を利用している」とする識者の談話を引用した。9月には、連合国側の記者らが被爆地を訪れ、「世界で最も破壊された都市」などと驚きをもって本国に打電した。ただ、被爆者の被害が詳細に描かれることはあまりなかった。
【追記1】被爆者の平均年齢は83・31歳
厚生労働省のことし3月末のまとめによると、被爆者健康手帳所持者は全国に13万6682人いて、この1年で9162人減った。平均年齢は83・31歳。原爆死没者の総数は、計32万4126人になる。(朝日新聞8月6日付朝刊)
【追記2】長崎投下のB29にはNYタイムズ記者も搭乗
8月6日夜、NHKで放送された「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」では、長崎に原爆「ファットマン」を投下したB29「ボックスカー」にジャーナリストとしてニューヨークタイムズのウィリアム・L・ローレンス記者が搭乗し、その目撃談が明らかにされた。
この事実は、2018年8月、朝日新聞出版から出た広島市立大学教授、井上泰浩氏「アメリカの原爆神話と情報操作」ですでにその詳細が明らかにされている。同書によると、ローレンス記者は社主らの了解のもとで、軍と裏取引し、原爆を世界に告げたトルーマンの「大統領声明」からメディアへ軍が提供した資料や模範記事まで準備し、放射能とその影響を否定する記事を書き続けた。
そして、当時のハーバード大学のジェイムス・B・コナント学長とともに①原爆は民間人の犠牲を避けるため事前に警告をして軍事基地を破壊した②あっという間に日本を降伏させた③戦争を早期に終結させた結果、予想された100万人ものアメリカ人の命、さらに日本人の命も救った救世主だ④アメリカは神に託されて慈悲深い行いをした⑤原爆の放射性物質は熱と爆破に変わっているので、ほとんど影響はないーとの5つの「原爆神話」を世界に植え付けた、としている。リベラル派の代表的な新聞であるニューヨークタイムズですら、戦争に大きく加担していたということなのだろう。
【追記3】米国は第3、第4の原爆投下を計画していた
米国の科学や歴史などの専門の高級雑誌「ナショナルジオグラフィク日本版」(ヤフーニュース、8月9日)の記事によると、米国は2発の原爆で戦争が終わるとは考えていなかった。日本の通信を傍受していた米国は、日本の内閣上層部の意見が割れていることを知っていた。
1945年8月9日の2回目の原爆投下もソ連の侵攻も日本の無条件降伏を受け入れを引き出すことはできないと考えていた。8月12日か13日には、原爆の最後の部品がニューメキシコ州のロスアラモスを出発し、その1週間後には日本に投下できる見込みだった。8月10日にはスパーツ太平洋戦略航空軍司令官が陸軍航空軍の目標計画責任者ローリス・ノースタッドに電報で「次なる目標は東京にすべし」と強く勧告していた。このことから、8月14日に日本がポツダム宣言を受諾しなければ、東京に第3発目が落とされる可能性もあった、としている。