「戦後75年」「特攻」について考える 第1回 「1億総特攻」への道 志願でなく、強制であり命令だった

投稿者:

 作家小田実(1932年~2007年)は、「特攻機のゆくえ」(1965年3月1日から4日まで産経新聞に掲載)という文章の中で「私には、まず、彼らが基地を飛び立ってから、どんなふうな行路をとって目的地に達したかが気にかかる。その行路の途中で、いったい、彼らが何を見、何を考えたかーそれがこの20年来(終戦から)、私の心にひっかかってきた」と書いた。その上で「(だから、)特攻機のゆくえを最後まで見届けるリアリスティックな眼を持ち続けたいと願っている」と結論付けている。「特攻隊」については、国に殉じた「英霊」として、その死をロマンチックに美化する考え方がある。一方で「無駄死に」「犬死に」という言葉を投げかける人たちもいる。小田は終戦時13歳の少年だった。だから、特攻隊に行った世代とわずかしか違わない。少し早く生まれていれば、自分も特攻に参加していたとの想像力が十分に働く世代だった。だから特攻隊員の気持ちを「追体験する」ことができた。

 1944年(昭和19年)10月の「神風(しんぷう)特別攻撃隊」敷島隊から始まった航空特攻。250キロ爆弾を翼に搭載した飛行機もろとも敵の艦船に突っ込む。その搭乗員は生きる可能性が全くない「十死零生」の非人間的な攻撃だった。だから、「志願」がタテマエだったとされる。搭乗者の意思を確かめなかった陸軍初の航空特攻「万朶(ばんだ)隊」のようなケース(44年11月)もあった。一方で、上官から「熱望する」「希望する」「希望しない」との志願書を手渡され、1時間後に提出を求められ、内心は死が怖くて特攻隊に選ばれたくなかったが、「熱望する」に丸印を付けた、という生存者の証言もある。(NHK、19年8月23日放送「僕は特攻を2度『熱望』した」)。

 どちらにしろ、誰でも、このような場面になったら、当時の「天皇陛下のために死ぬ」ことは当然とした教育などから、「熱望する」に丸を付けるという「特攻隊志願」の選択肢しかなかったのだろう。「熱望する」としなければ、上官からぶっ飛ばされていただろうし、家族や自分の出身地域の人々に顔向けできないとの「同調圧力」も強かったのだろう。戦後、生き残り、特攻を命じた上官や海軍や陸軍の責任者たちは自分の責任を逃れるために「志願だった」ことを強調した。しかし、事実上、命じられた者にとって特攻は「志願」などではなく、国家による「強制」であり「命令」だったことは明記しておく必要があるだろう。

「特攻隊員はわれわれである」 いまこそ「歴史的想像力」を

 国家が個人に全く生還の可能性のない死を強要する特攻は、どのような理由をつけても繰り返されてはならない。このことはアジア太平洋戦争の大きな教訓である。日本を代表する近現代史の研究家で作家の保阪正康の言葉を紹介したい。

 「『特攻隊員はわれわれである』」という視点が必要だ。あの時代に生きていれば、あの時代が繰り返されれば、自分も特攻隊員になるかもしれない。特攻を考えるとき、必要なのは同情ではなく連帯感である。隊員の苦衷、苦悶が分かれば、美化することなどできないはずである。『特攻で死んだ人に失礼ではないか』『彼らのおかげで今の日本がある』などと言う人がいる。どうしてそんな軽々なことが言えるのか、それでは特攻を命じた指揮官と変わらない」(2015年10月24日毎日新聞,特攻70年インタビュー)

 そんな非人間的な作戦がどのように生まれ、計画され,実行され、その責任者はどのような運命をたどったのか。10代から20代の若者が犠牲となった特攻隊の歴史はすでに75年が経過した。「特攻隊員の手記」を読むと分かるが、生き残った特攻隊員には、生き残ってしまったことに、死んだ仲間にすまないとの気持ちをずっと持ち続けた人が多いという。そのような中で、当事者や遺族ら関係者が亡くなって「語り部」もいなくなり、人々の関心は少しずつ薄れていくように思う。いずれ近い将来、体験者はいなくなる。すでに小田実のような「追体験」できる世代も少なくなってきた。だからこそ、「特攻機のゆくえ」を探り、「特攻隊員はわれわれである」との視点を持ちながら、特攻を美化することなく、考える「歴史的想像力」がいま求められている。軍事指導者や国のトップリーダーだけでなく、当時、「志願者」を増やすために軍部に協力して特攻を賛美して煽った新聞の責任を考えることも重要だ。航空機を中心に、魚雷を改造した人間魚雷「回天」などの特別攻撃と「海上特攻」として出撃命令を受けながらも、沈没後、国は「特攻」と認定しなかった「戦艦大和」について考えてみたい。

「1億総活躍」は「1億総特攻」を連想させる

 5年前の15年9月、安倍晋三首相は、自民党総裁に再選された後の記者会見で「1億総活躍社会」という新しいスローガンを打ち出した。ことし8月28日の辞任会見でも安倍首相はこの言葉をレガシーとして口にした。1億総活躍社会というと、国民を駆りたてた国家総動員法下の「戦争」に関連する標語を思い起こす。このスローガンは75年前にメディアで盛んに使われた「1億総特攻」という言葉を連想させる。

 1945年元旦、東條英機首相の後を継いだ小磯国昭首相は新年に当たっての年頭談話で「陸海軍の特攻隊に続き、1億国民も全員、特攻隊として闘魂を鉄火とたぎらし、(自爆して)戦局を挽回しよう」と国民に檄を飛ばした。

 この年の1月18日、最高戦争指導者会議が開かれ「全軍特攻」が正式に決定された。「特攻」が日本の根幹の作戦になった。太平洋戦争末期の45年、米軍は沖縄戦の後、九州に上陸する「オリンピック作戦」と関東に上陸する「コロネット作戦」という日本本土の上陸作戦を立てていた。日本が7月26日の「ポツダム宣言」を受諾せず、軍部の徹底抗戦派の言うとおりに「1億総特攻」のかけ声の下、「本土決戦」をやっていたならば、さらに多くの人命が失われたことは間違いない。負け戦が続き、追い詰められていたとはいえ、神風特別攻撃隊による「特攻第1号」からわずか3カ月弱の間に「1億総特攻」に行き着いてしまった当時の軍部や政治リーダーたちの無策や無責任さに改めて驚く。

なぜ「特攻」が生まれたか 

 では、「特攻」という非人間的な作戦がどのように生まれ、計画され,実行され、その責任者はどのような運命をたどったのかをまず考えてみたい。

 特攻を始めた〃特攻の父〃は、大西瀧治郎海軍中将だといわれる。海軍の中でも航空機の専門家だった大西は、そもそも米英との開戦自体に反対だった。1943年6月、大西が海軍省航空本部総務部長のとき、侍従武官の城英一郎大佐から、航空機による体当たり攻撃を進言された。その際、大西は「まだその時期ではない」とこの意見を採用しなかった、とされる。

 1944年になり戦況が逼迫してくると、海軍部内で「特攻」の話が表面化し始めた。神立(こうだち)尚紀の「日本人なら知っておくべき特攻の真実」(18年4月15日、現代ビジネス)によると、海軍で特攻の方針を最初に決めたのは、当時、軍令部第1部長(作戦担当)の中澤佑少将(後に中将)と第2部長(軍備担当)の黒島亀人大佐(後に少将)だった、という。44年4月4日、黒島は中澤に、人間魚雷(後の「回天」)を含む各種特攻兵器の開発を提案。軍令部はこの案を基に、特攻兵器を開発するよう海軍省に要請した。同年8月には、人間爆弾(後の「桜花」)の開発も始まり同9月には海軍省に「海軍特攻部」が新設されている。神立は「回天も桜花も現場の隊員の発案によるものだが、当時、軍令部にいたこの2人の同意がなければ、特攻が形になることはおそらくなかった」としている。

 大西が第1航空艦隊司令長官としてフィリピンに着任したのは、44年10月17日。公刊戦史によると、当時、フィリピンの日本軍には、海軍が39機、陸軍を含めても約70機の航空機しか残っていなかった。翌18日にはフィリピン防衛の「捷1号作戦」が連合艦隊から発令されており、この直後の20日にレイテ島に米軍が上陸している。大西はその前は軍需省の航空総局総務局長だった。前任の寺岡謹平中将との引き継ぎも手早く済ませて19日には、副官の門司親徳主計大尉を伴ってマニラから車で約80キロあるマバラカット基地へ。基地には戦闘機隊を中心とした第201航空隊(201空)があった。この途中、車の中で大西は門司に「決死隊を作りに行くのだ」とつぶやいている。遅くともこのときには大西は、航空特攻を最終的に決めていた。

 大西が日本をたつ前の44年10月上旬に開かれた海軍軍令部の首脳会議。大西は及川古志郎軍令部総長ら首脳に対して「現在の窮境を打開するためには、(航空機による)必死必殺の体当たり攻撃をするほかにはない」と上申した。これは森本忠夫の「特攻」(光人社NF文庫)からの孫引き(元は実松譲「日本海軍英傑伝」)である。この上申に対して、なぜか、出席の軍令部首脳から疑問はひとつも出なかったという。及川は「この戦局に対処するため、涙をのんで申し出を承認する」と述べた。そして「けっして命令してくださるなよ」と付け加えた、という。そうすると、軍令部総長は特攻をあくまでも「命令」ではなく、「志願」でやるよう条件を付けたということになる。これは、軍令部上層部が責任を回避し、特攻のすべての責任を大西に押しつけたことにならないか。政治学者丸山真男が指摘した戦争を推進した指導部の「無責任の体系」がここでもみられる。

大西瀧治郎の「統率の外道」の意味は

 こうしてみると、「十死零生」の特別攻撃について大西が自嘲的に漏らしたとされる、正常な戦闘行為ではない「統率の外道」(「悪魔のような作戦」というほどの意味)という言葉の意味は重い。大西は神風特別攻撃隊が予期せぬ「戦果」を挙げた2日後の44年10月27日、当時、第1航空艦隊首席参謀の猪口力平大佐にこう語ったという。(森本忠夫「特攻」)

「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ。なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」
大西はこのとき、特攻が、とんでもない、非人間的な作戦であることを自覚していた。

 大西は、フィリピンで特攻を送り出したあと、フィリピン戦末期に台湾に脱出して、この後、海軍中枢の軍令部次長に就任。「徹底抗戦」を主張して時の鈴木貫太郎内閣の終戦工作に抵抗した。「1億総特攻」を唱え「日本は最終的に2千万人の特攻死を実行すべきだ」などと過激な意見を和平派の東郷茂徳外相に語ったという。そして敗戦直後の45年8月16日「特攻隊の英霊にもうす。善く戦ひたり、深謝す」との遺書を残して割腹自決した。54歳だった。

 また、森史朗の「特攻とは何か」(文春新書)によると、大西は特攻出撃を命じた後「命じられた者だけが死ぬのではない。命じた者も死んでいる」と心を許した知己に漏らしたこともある。さらに、特攻の真意について「フィリピンをその最後の戦場とし、天皇に戦争終結の聖断を仰ぎ,講和を結ぶための最後の手段である」と右腕の第1航空艦隊参謀長小田原俊彦大佐に語ったという証言(神立=こうだち=尚紀「特攻の真意」=文春文庫)もある。今となってはどちらが大西の本音なのか分からない。おそらく両方とも本当の気持ちなのだろう。一方で大西と異なり「自分も必ずみんなのあとに続く」と特攻隊員に〃約束〃しながら,戦後生きながらえた上官もいたことを忘れてはならない。

特攻までの経緯=「緒戦の勝利」から戦局悪化

 ここで、44年10月25日の神風特別攻撃隊「敷島隊」による特攻までの経緯を簡単に振り返っておきたい。1941年(昭和16年)12月8日、日本軍が英領のマレー半島に上陸、日本海軍の機動部隊が米国ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった。12月25日、香港の英軍が降伏。42年1月2日には、日本軍はフィリピンのマニラを占領。同2月15日、シンガポール占領。3月8日、ビルマ(現ミャンマー)占領。3月9日、ジャワ(インドネシア)の蘭印軍が降伏。5月7日にはフィリピンコレヒドール島の米軍が降伏し、マッカーサーが「アイシャル・リターン」との言葉を残してオーストラリアに脱出、フィリピン全島などを相次いで占領した。

 日本軍は開戦以来、半年あまりで東南アジアのほとんど全域を制圧した。緒戦の勝利である。日本政府は37年からの「支那事変」(日中戦争)を含めてこの戦争を「大東亜戦争」と名付けた。そして欧米勢力の植民地支配からアジアの諸民族を解放し、アジア人による共存共栄の「大東亜共栄圏」を建設するという戦争目的を掲げた。

 しかし、その後、戦局は大きく変わり始めた。

 1942年6月5日、日本の機動部隊はミッドウエー海戦で、6隻の正規空母のうち、4隻を一挙に失った。海軍はこの事実をひた隠しにした。同年8月7日にはガダルカナル島に突然、米軍が上陸した。ガ島は補給をほとんど断たれまま、応援部隊を小出しにして餓死者が相次いだことから「餓島」と呼ばれた。日本軍は翌43年2月には米軍との激しい戦いの末、ガダルカナル島から撤退した。ミッドウエーとガダルカナルの戦いが日本にとって大きな戦局の転換点となった。

 43年5月29日にはアリューシャン列島のアッツ島の守備隊2500人が全滅し,初めて「玉砕」(玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、いさぎよく死ぬこと)という言葉が使われた。11月25日には、マキン・タラワ両島の守備隊5400人全滅。44年6月にはマリアナ沖海戦で日本海軍は空母や航空機の大半を失う壊滅的打撃を受けた。そして同7月7日、「絶対国防圏」の一角のサイパン島の守備隊3万人が全滅し、民間人も犠牲になった。サイパンの陥落により米軍は超大型爆撃機B29の日本本土への空襲が可能になった。陸相や参謀総長まで兼務し「東條独裁」などと呼ばれた東條内閣は7月18日、ついに総辞職に追い込まれた。

 東條内閣の後、小磯国昭陸軍大将が組閣した。44年10月17日、米軍はフィリピンのレイテ島東約60キロにあるスルアン島に上陸した。さらに20日には、レイテ島に上陸して、日本はいよいよ追い詰められた。劣勢の日本の「起死回生」を狙う形で、フィリピン戦で「神風特別攻撃隊」が誕生した。

「神風特別攻撃隊」の誕生、「敷島隊」の出撃

 44年10月25日、フィリピンのルソン島の首都マニラから車で約2時間のところにある第1航空艦隊第201航空隊のマバラカット基地。関行男大尉が率いる海軍「神風特別攻撃隊敷島隊」の零戦5機が出撃し、米海軍の護衛空母(商船を改造した空母)「セント・ロー」に突っ込み、撃沈した。搭乗した兵士が死ぬことを前提とした「必死」の特別攻撃であった。4カ月前のマリアナ沖海戦では、日本軍は400機以上が出撃しながら米艦を1隻も沈めることができなかった。米軍はこれを〃マリアナの七面鳥撃ち〃と呼んだ。これに比べると〃大戦果〃だった。

 このとき10月20日に編成された「神風特別攻撃隊」は「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と4隊あり、各隊は10月21日からフィリピンの米空母を求めて攻撃に飛び立っていた。「敷島隊」より先に10月22日に「大和隊」隊長の久納好孚(こうふ)中尉機がレイテ島東方に向かい戦死していた。しかし、大本営が華々しく「特攻第1号」として発表したのは「敷島隊」だった。久納が法政大学の学徒出身で関は海軍兵学校卒のエリートだったので「敷島隊」を「第1号」としたのではないかという説もある。栗原俊雄は「特攻ー戦争と日本人」(中公新書)の中で「真相は分からない」としている。

 ただし、当時の第1航空艦隊で大西の先任参謀だった猪口が 第201空副長の玉井浅一中佐に「隊長は海軍兵学校のものを選ぼう」といっていたとの証言があるので、「大戦果」があったことと合わせた〃政治〃のにおいはする。

当初の目的は空母の甲板を使えないようにすること

 これに先立つ10月19日朝、大西は部隊長らにマニラへの参集を命じていた。しかし、201空の山本栄司令と中島正飛行長がこないのでしびれをきらして自らマバラカット基地へ赴いた。迎えた飛行隊長の指宿正信大尉と飛行場に行くと、201空副長の玉井中佐と1航艦先任参謀の猪口大佐らがいた。飛行場建物のベランダでもう1人の飛行隊長横山岳夫大尉や第26航空戦隊参謀の吉岡忠一中佐も交えて、副官を除いた6人 で約1時間会談した。

 猪口、中島が戦後著した「神風特別攻撃隊」によると、大西は「捷号作戦が失敗すればゆゆしい大事を招く。1航艦としては栗田艦隊のレイテ突入を成功させねばならない。そのためには、敵の機動部隊をたたいて、少なくとも1週間ぐらい、空母の甲板を使えないようにする必要がある。それには、零戦に250キロの爆弾を抱かせて体当たりするほかに、確実な攻撃法はないと思う」と述べて参加した幹部の意見を聞いた。大西の特攻の目的は当初は、レイテ突入を目指す栗田艦隊支援のため「少なくとも1週間ぐらい、空母の甲板が使えないようにする」ことにあった。

 玉井は「山本司令の意向を聞く必要がある」といったが、大西は「すでに山本とはマニラで打ち合わせ済みである。副長の処置に任せるとのことだった」と大西は本当はまだ会ってもいない山本の対応策を話したという。

副長が予科練の教え子たちを〃説得〃 不承不承の「志願」

 このとき同席した横山は「体当たり」という言葉は聞いていない、と戦後、神立(「特攻の真意」)に話している。ややニュアンスは異なるが、横山によると、玉井は指宿とひそひそ話をはじめ、「編成については全部201空にお任せください」と答えた。これが「神風特別攻撃隊誕生」の瞬間だった。

 玉井は早速編成にとりかかり、役に立つ零戦の数も相次ぐ出撃で激減していたことから、まず自分が教官として育てた基地内の「甲飛10期生」(海軍の予科練習生)のうち、33名を集合させた。そして「お前たちの零戦に爆弾を抱いて敵空母に突っ込む必要がある。日本の運命はお前たちの双肩にかかっている。突っ込んでくれるか」と〃説得〃した。反応がにぶかったため「行くのか、行かないのか」と玉井が叫ぶと、その声に「反射的に総員が手を挙げた」と生き残った隊員は証言している。

 猪口は著書で「喜びの興奮に感動して」と書いているが、この隊員は「猪口の書いたのとはほど遠い、不承不承の志願だった」と回想している。この日夜半、33人のうち、体当たり攻撃隊員12人が指名された。まず隊員が決まった。次は指揮官である。通常は指揮官が決まってから隊員が決まるというのが海軍では常識だった。

敷島隊4回目の出撃で護衛空母撃沈

 猪口は「指揮官は兵学校出身の者を選ぼう」と述べて、玉井が頭に浮かべたのは、ある飛行隊長だった。しかし、この隊長は飛行機を日本まで取りに行っていて留守だった。また、大西は当時、戦闘機乗りとして勇名をはせていた指宿を考えていた。しかし、このとき、マバラカットにいたのは、指宿、横山と後2人の分隊長の大尉2人の4人。指宿、横山は飛行隊長なのではじめから除外された。対象は分隊長の2人だけ。このうち1人の大尉は歴戦の指揮官の1人で、結局、玉井は海軍兵学校70期の戦闘301飛行隊分隊長の関行男大尉を選んだ。これでははじめから関に決まっていたのも同然だった。

 関はもともと艦上爆撃機のパイロットで、戦闘機乗りに転向したばかりだった。44年9月に201空に着任までは、教官をしていて戦闘機の実戦経験は皆無。そして5月末に結婚したばかりだった。玉井は腹をこわして寝ていた関を士官室に呼び出し「体当たり攻撃の指揮官にお前に白羽の矢を立てたのだが、どうか」と言った。関ははじめ「一晩考えさせてください」と答えた。しかし、玉井が再度、「行ってくれぬか」とたたみかけると、関は「承知しました」と短く答えた。門司によると、後に猪口は門司副官に「関はチョンガーじゃなかったのか」と言っていたという。猪口は関に妻があることも知らなかった。

 関は出撃の前にマバラカットにいた同盟通信(共同通信の前身)小野田政報道班員に「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に爆弾を命中させる自信がある」と語っている。関のこの言葉からは、「突然の特攻指名」を「理不尽」と考える悔しさがにじみ出ているように思える。

指揮官は「艦爆隊」出身の関行男大尉に

 最初の特攻隊のメンバーがこれで決まった。

 関を指揮官とし、「敷島隊」が関を入れて4人、あと「大和隊」3人、「朝日隊」3人、「山桜隊」3人の計13人である。この4隊には、戦果を見届け特攻を支援する直掩機13機がつけられた。「神風」の由来は本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」。大西自身が考えたものであると門司は猪口から聞いたと話している。異説もある。

 「10月25日までに比島東方海面の敵機動部隊を壊滅す」などの大本営からの特攻命令が出された。10月21日から各隊の出撃が始まり、関の敷島隊も出撃を繰り返すが、なかなか敵に遭遇しないで基地に引き返す日々が続いた。「捷1号作戦」(フィリピン方面決戦)航空総攻撃の24日にも出撃するものの、悪天候に阻まれ敷島隊 は帰投した。関は「申し訳ありません」と涙を流し、うなだれるばかりだった。そして翌25日、敷島隊の4度目の出撃。このとき敷島隊は当初のメンバーから3人以外は交代して5人の爆装隊に4機が直掩した。

 レイテ沖海戦で戦艦武蔵を失うなど栗田艦隊が米軍の航空機に翻弄され、ばらばらになっていた態勢を立て直そうとしているとき、関らはレイテ島タクロバン沖で、栗田艦隊の砲撃から逃れたばかりの⒌隻の護衛空母群を発見。「セント・ロー」を体当たり攻撃で沈没させ,3隻が中・小破した。直掩機含め6機の零戦の犠牲でこのような大きな損害を出したのは米軍にとって驚愕すべき事実だった。

 この思わぬ「大成果」が日本をさらなる特攻へと導いていく。(敬称略)
(第2回に続く)

(注) 小田実全集「戦後を拓く思想」(講談社)、森史朗「特攻とは何か」(文春新書)、森史朗「敷島隊の5人」(光人社)、神立尚紀「特攻の真意」(文春文庫)、草柳太蔵「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文芸春秋)、栗原俊雄「特攻ー戦争と日本人」(中公新書)、保阪正康「『特攻』と日本人」(講談社現代新書)、森本忠夫「特攻」(光人社NF文庫)、近現代史編纂会「図説 特攻のすべて」(山川出版)などを参考にしました。