途中でレイテ湾への突入をやめた栗田艦隊よりも戦果が上がった神風特別攻撃隊「敷島隊」の予期せぬ「成果」で「特攻」の意味が変わった。「栗田艦隊のレイテ湾突入を支援する」目的の限定的な特攻から全軍的な特攻へとその目的が変容した。
敷島隊が突入した1944年10月25日、大西瀧治郎中将の第1航空艦隊(1航艦)と福留繁中将の第2航空艦隊(2航艦)が合体した。司令長官は福留、幕僚長に大西が就いた。このとき、大西は幕僚を前に「本日神風特攻隊が大きな戦果を挙げた。日本が勝つ道はこれ以外にない。今後も特攻を続ける。このことに批判は許さない。反対する者はたたき切る」と述べたといわれている。
この後、「神風特別攻撃隊」は関らの「第1」に始まり「第2」「第3」「第~」と続く。陸軍も同年11月、初の航空特攻隊がレイテ湾の米軍に向けて出撃し、航空機による特攻をはじめ、全軍が特攻にのめり込んでいく。
陸軍特攻も始まる 爆撃機で突っ込む
フィリピンで誕生した航空機による特攻は結局、沖縄戦、そして敗戦まで続けられた。44年10月に始められた航空特攻はフィリピンでは、レイテ島から首都マニラのあるルソン島に戦いが移る45年1月25日まで続く。約3カ月間に出した海軍の未帰還機は333機、陸軍は202機に及ぶ。フィリピンへの特攻は、1航艦が台湾に移動してからも続くが、次の本格的な特攻の登場は、同年4月から始まる沖縄戦である。
約3カ月間、たくさんの若者たちはフィリピンで自分の命を国家に奪われる特攻に参加した。44年11月12日には、海軍に続いて陸軍も、中央で編成の上、前線に送るという形で特攻に加わった。陸軍特攻が始まった。
栗原俊雄の「特攻ー戦争と日本人」(中公新書)によると、特攻隊の組織的決定は海軍よりも陸軍の方が早かった。44年3月には、陸軍参謀本部は航空特攻を決定していた。同年10月、茨城県の鉾田教導飛行師団に特攻隊の編成が命じられた。10月21日、体当たり機に改造された双発の99式軽爆撃機8機、16人からなる「万朶(ばんだ)隊」が結成され、フィリピンに向かった。海軍の「神風特別攻撃隊」が初出撃した日である。99式爆撃機の800キロ爆弾は体当たりする前には爆弾を投下できないようになっていた。起爆装置として機首から3メートルほどの細い管が3本突き出していた。これを報道班員として陸軍の知覧基地にいた高木俊朗は「死の触角」と命名した。10月24日には、静岡県浜松で800キロ爆弾2発を載せた双発の4式重爆撃機「飛龍」13機26人により、「富嶽隊」が結成されフィリピンへ。1式戦闘機「隼」からなる「第1」から「第⒋」の「八紘隊」などがフィリピンに送られた。
陸軍初特攻 実は生きていた佐々木友次伍長
陸軍初の航空特攻となるのは、44年11月12日、海軍よりも約半月遅れの第4航空軍の「万朶隊」の4機だった。マニラ南方の飛行場を飛び立ち、大本営は翌13日「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表。新聞は「必死必殺の万朶隊」などと1面トップで大きく伝え、その〃戦果〃を煽った。公刊戦史によると、実際には、4機はレイテ湾の米艦「炎上沈没寸前の大型艦船2隻」と「炎上中の小型船1隻」を特攻機援護の直掩機が確認したということらしい。翌13日には「富嶽隊」の5機がクラーク東方の米機動部隊を襲い、第4航空軍の特攻は日常となる。
「万朶隊」(鉾田陸軍教導飛行団特別攻撃隊)が米艦に突っ込んだ翌々日の11月14日、新聞は大本営発表で戦死した4人の名前を挙げて報道した。実はこのうちの佐々木友次伍長は生きていた。出撃当時は21歳だった。特攻に9回出撃して、体当たりしろという上官の命令に抗い、爆弾を落として9回帰って来た人だった。このことを作家で演出家の鴻上(こうかみ)尚史は「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(講談社現代新書)にまとめた。2016年2月に92歳で亡くなるまで5回、病床にあった佐々木にインタビューした。
佐々木がこのようなことを可能にしたキーパーソンは万朶隊隊長の岩本益臣(ますみ)大尉だった。岩本は1917年生まれ、陸軍航空士官学校などを経て、25歳で茨城県の鉾田陸軍飛行学校の教官に就任。操縦のエキスパートだった。体当たり攻撃は人材と航空機の取り返しのつかない損失と考え、超低空で目標に接近し、爆弾を1度海面に落とし、跳ね上がらせて命中させる跳飛(ちょうひ)爆撃を研究、推進した。しかし、44年10月には、操縦技術の高さから万朶隊の隊長に任命された。出撃前の同年11月、フィリピンで移動中に米軍機に撃墜され、27歳で戦死した。万朶隊の隊員の証言によると、岩本は「体当たり機は、操縦者を無駄に殺すだけでなく、(敵艦を)撃沈できる公算は少ない。出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」と隊員に指示。上層部の許可がないまま、爆弾を投下できないようになっていた飛行機を投下できるように改装した。そのおかげで、この隊員は何度も出撃したが、生還できたという(西日本新聞2019年8月24日)。おそらく「この隊員」は佐々木ではないか。
佐々木は44年11月12日、4人乗りの爆撃機にひとりで乗り込み、出撃地の飛行場を飛び立った。岩本のためにも敵に爆弾を命中させ、生きて戻るつもりだった。レイテ湾を飛行中に敵艦を発見し、高度5千メートルから急降下した。高度800メートルから敵艦めがけて爆弾を投下した。命中したかどうかわからないまま、反撃を怖れて直ちに現場を離れ、岩本に教わった「緊急避難地」のミンダナオ島に着陸した。
大本営は万朶隊の戦果を誇張して発表し、佐々木は戦艦を沈めて殉職した「軍神」として祭り上げられた。万朶隊の属する第4飛行師団参謀長の猿渡篤孝大佐は生きて基地に戻った佐々木に向かい、「どういうつもりで帰ってきたのか。死ぬのが怖くなったのか」と詰問した。2回目の出撃では掩護する僚機が見つからず、帰還した。3回目は操縦席でエンジンを回そうとした瞬間、米艦載機が爆弾を投下した。機体の外に飛び出した佐々木は猛烈な爆風の中を必死に走って逃げた。4回目の出撃前、作戦参謀から「必ず体当たりしろ」と命じられた。このようなことが9回続き、佐々木は生還した。(SAPIO18年8月5日)。
札幌市近くの当別町にある佐々木の墓には以下のような文字が刻まれている。
「哀調の切々たる望郷の念と 片道切符を携え散っていった 特攻と云う名の戦友たち 帰還兵である私は今日まで 命の尊さを噛みしめ 亡き精霊共に悲惨なまでの 戦争を語りつぐ 平和よ永遠なれ」(鴻上尚史「不死身の特攻兵)。
部下を残して台湾に逃亡した陸軍司令官
陸軍特攻の総指揮官である第4航空軍の冨永恭次中将は「君たちだけを死なせやしない。本官も必ず最後の一戦で後を追う」と訓示した。しかし、45年1月、米軍がルソン島に上陸するなり、大本営に無断で、部下を残して台湾に逃亡した。冨永は東條英機の側近の1人で43年に陸軍次官。しかし、44年7月の東條内閣総辞職で、翌月、第4航空軍に左遷された。この〃逃亡〃行為により、45年2月、予備役編入、同年7月に再召集され、満州へ。結局、55年(昭和30年)まで、ソ連によりシベリア抑留された。戦争を煽り、若者たちを「特攻」へと駆りたてた司令官の哀れな姿である。
「斬って,斬って」と絶叫した飛行長らそれぞれの戦後
海軍の航空特攻の要の201空では、その後、玉井浅一中佐が司令となり、中島正飛行長とコンビで引き続いて若者たちを特攻に送り出した。神立尚紀は「特攻の真意」の中で、中島は45年1月6日、米軍がルソン島のリンガエン湾に上陸し、マバラカット基地からの特攻出撃が最後となる日に指揮所前に全搭乗員を集合させてこう「絶叫」したという。
「天皇陛下は敷島隊の報告を受けて『かくまでやらねばならぬということは、まことに遺憾であるが、しかし、よくやった』と仰せられた。特攻をやめろとは仰せられなかった。飛行機のある限り最後の1機まで特攻は続けなければならぬ。飛行機がなくなったら、最後の一兵まで斬って、斬って、斬りまくるのだ」
中島は軍刀を振り回して訓示したという。かつては情の厚い、部下思いの指揮官として知られていた玉井も、特攻出撃を推進する立場になってからは、敵を発見できずに引き返してきた特攻隊員を罵倒し責め立てた。戦場はここまで人間を変えてしまった。
中島も玉井も戦後も生き続ける。玉井は戦後、特攻隊員として死んだ部下の供養のため仏門に入り、1964年(昭和39年)に死去した。中島は戦後、航空自衛隊に入り空将補で退職、1996(平成8)年に死去した。また、大西瀧治郎中将が特攻〃第1号〃の本命と考えていたといわれ、関行男大尉の選考にもかかわったとされる指宿正信大尉は、戦後、航空自衛隊に入り、1957(昭和32)年、操縦するF86戦闘機が墜落、殉職している。
比で671人特攻死、ルソン島での戦いは終戦まで続く
栗原俊雄の「特攻」によると、フィリピン戦での特攻の戦果は、護衛空母2隻、駆逐艦3隻、上陸用舟艇14隻を撃沈、沈没には至らないものの大きな被害を与えた「撃破」と合わせて計72隻。海軍の未帰還機は333機、陸軍202機の計535機、戦死は海軍420人、陸軍251人で、計671人に上る。1隻の撃沈に要したのは,実に28機、35人。このあとはフィリピン戦の戦果を上回ることはなかった。レイテ島での戦いのあと、ルソン島でも米軍との戦いが終戦まで続く。
特攻だけでなく、フィリピン戦全体をみると、日本軍の死者は太平洋戦争で最大で、投入された日本軍61万人のうち約52万人と、その81%が死亡した(1964年厚生省=現厚労省=調査)。それも「純然たる戦死者よりも、栄養失調を原因とする病死、餓死の方が圧倒的に多かった」(藤原彰「餓死した英霊たち」)という。東京新聞(2015年7月24日)によると、厚労省に残されたフィリピンでの軍人・軍属の1733人の死亡状況を分析したところ、45年初めには14%前後だった病死率が徐々に増加し、敗戦直後の9月には77%に上ったことが判明している。フィリピンの人々の死者は約110万人に上るといわれる。南京虐殺の際に南京城の治安警備を担当、中国からレイテ島に転戦した陸軍第16師団も潰滅した。
沖縄戦前に329人が特攻死、米空母に損害
保阪正康監修、近現代史編纂会編の「写真で見る太平洋戦争Ⅱ 玉砕の島々と沖縄戦、終戦への道」などによると、1945年1月25日、約3カ月の間続いたフィリピンでの特攻作戦が打ち切られた。
2月19日、には、マリアナ諸島のサイパンと東京の間、約2500キロの中間にある硫黄島に米軍が上陸、3月17日、2万1千人の日本軍守備隊の小笠原兵団(司令官・栗林忠道陸軍中将)を攻略した。日本軍は約2万人が戦死、千人が捕虜に。栗林司令官は27日に自決。米軍側も2万9000人が死傷する日本軍を上回る人的被害を被った。米軍はついで沖縄本島をうかがおうとしていた。
硫黄島は日本空襲の中継基地であり、米軍攻略部隊に対する航空特攻が2月21日に千葉県木更津基地を出撃した海軍の「第2御楯隊」である。1機が正規空母「サラトガ」に、2機が護衛空母「ビスマルク・シー」に体当たりし、「ビスマルク・シー」は350人の乗組員と共に、沈没した。特攻隊3番目の空母撃沈で、撃沈した最後の空母となった。
サラトガの損傷もひどく、撃沈に等しい戦果だった。3月14日、米海軍の第58機動部隊がウルシー泊地を出撃、サイパンとグアムにはB29の一大基地が完成し3月10日の東京大空襲や13日の大阪大空襲などの戦略爆撃が始まった。
これに対して鹿児島県の鹿屋に司令部を置いた海軍の第⒌航空艦隊と福岡に司令部を置いた陸軍第6航空軍は45年3月17日から次々と特攻隊を繰り出した。その最大の戦果は3月18日の空母「エンタープライズ」「イントレピット」「ヨークタウン」と19日の「フランクリン」に対する攻撃である。「フランクリン」は沈没こそ免れたが、832人が戦死した。この間の特攻隊の戦死者は「桜花部隊」も含め329人に上った。
フィリピンのあと主戦場になったのは沖縄である。主として南九州の基地を拠点に特攻は拡大していく。特に鹿児島県には、建設中の飛行場も含めると、20カ所もの航空基地があった。海軍16カ所、陸軍4カ所である。
このうち、「沖縄特攻」の陸軍最前線基地の「知覧」。戦後、それも最近になって自治体が特攻隊のアピールに力を入れたこともあって映画や小説などで有名になった。42年(昭和17年)に開設され、戦争末期の45年⒋月の沖縄戦開始で、戦場から650㌔離れた知覧は最前線の特攻基地として使われるようになった。
知覧特攻平和会館によれば、ここを飛び立った特攻隊のうち、439人が戦死した。これは、知覧基地からの命令によって万世など他の基地から出撃した陸軍の特攻航空戦死者1036人の42・3%に当たるという。知覧と同じ鹿児島県の「鹿屋」には、海軍の航空基地が置かれた。この基地の特攻戦死者は908人にのぼり、国内基地としては最も多い特攻死の数である。
沖縄戦は「本土決戦」を遅らせる「時間稼ぎ」
池田清編「太平洋戦争全史」、「写真で見る太平洋戦争」などによると、米軍の沖縄本島に対する上陸前攻撃は45年3月22日から始まった。日本の大本営はただちに沖縄をにらんだ陸海合同の航空作戦である「天1号作戦」を発令した。陸軍の第6航空軍は海軍の第⒌航空艦隊の指揮下に入った。最初の成果は陸軍特攻で、戦艦「ネバタ」や駆逐艦3隻にそれぞれ体当たりした。
3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し、南西諸島を支配下に置いた。このあと、守備隊の強制による住民700人の集団自決が起きた。そして、4月1日、米軍第1陣の1万6千人が沖縄の嘉手納、読谷の両飛行場の正面海岸に無血上陸した。沖縄を守る第32軍(軍司令官牛島満中将)の8万6千人と中学生約2千人で組織した「鉄血勤皇隊」など中学生以上の男子で結成した防衛隊や義勇隊2万5千人などが迎え撃つことになった。これに看護部隊として、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第1高等女学校のひめゆり部隊の543人も加わった。
第32軍は軍司令部を米軍の上陸地点から15キロ南の首里城の地下陣地に置き、主力部隊もその周辺に重点的に配置していた。米軍が首里付近に進撃するに従い、地下壕から小部隊が飛び出して阻止するという戦術だった。こういう作戦がとられたのも、直前に第9師団を台湾に転用されたため、沖縄防衛戦はできるだけ長く戦って、米軍の犠牲を多くし、来るべき本土決戦を1日でも遅らせるための持久作戦である。本土決戦のための「時間稼ぎ」だった。だから、海岸線で米軍を全く迎え撃たなかったのである。
沖縄県民の6人に1人が死亡、戦没者は19万人
4月7日、日本軍は米軍に占領された嘉手納飛行場などに砲撃を開始し、一斉に反撃に出た。日本軍は自然の要塞(洞窟=ガマ)の上に堅固な陣地を構築、米軍を待ち伏せし、爆弾を抱えた兵士が戦車に体当たりするなどの肉弾攻撃が続いた。
当初の10日間の戦闘で双方の死傷者は五分五分だった。しかし、その後、米軍側の艦砲射撃や空母艦載機による爆撃で日本軍はだんだん消耗していった。6月13日、海軍の司令官大田実少将は4千人の将兵と共に地下壕で自決した。大田少将は自決の直前に「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世、特別のご高配を賜らんことを」との電報を海軍次官にあてて打っている。
そして6月23日、牛島司令官と長勇参謀長は自決し、沖縄での日本軍の組織的抵抗は終わったとされている。沖縄県は「6月23日」を「慰霊の日」に定めた。しかし、3日後の6月26日には久米島の日本軍守備隊によって住民30人がスパイの汚名を着せられ殺された。沖縄各島の日本軍が米軍との間で降伏文書に調印したのは終戦の日から20日以上がたった9月7日である。沖縄戦の戦没者は18万8136人、県民の死者は12万2千人(軍人・軍属を除く住民の死者は9万4千人、10万人以上ともいわれる),米軍も1万2281人の戦死者を出した。当時の県民は約60万人なので6人に1人が戦死したことになる。
米軍上陸6日目の45年4月6日、特攻機約300機による最大の沖縄特攻が実施された。早朝から日暮れまで延々19時間に及ぶ特攻が行われた。駆逐艦、掃海駆逐艦、戦車揚陸船、給油船など6隻を撃沈した。当日の特攻戦死者は347人と記録されている。沖縄での特攻戦死者として最大となった。海軍はこの日の特攻を「菊水1号作戦」、陸軍は「第1次航空総攻撃」と呼んだ。しかし、米軍が特攻を警戒するようになると、次第に戦果も上がらなくなった。結局、終戦までに特攻によっても空母や戦艦など大型艦は1隻も沈めることはできなかった。航空特攻だけで、フィリピン戦の671人に比べ沖縄特攻では約2500人が特攻死した。
栗原の「特攻」によると、航空特攻に限ると、特攻死は海軍2431人、陸軍1417人の計3848人で、撃沈の合計は47隻。1隻を沈めるためには、81人の特攻隊員が死ななければならなかった。6000人近い17歳から22歳までの若者たちが国家により理不尽な特攻死を強要されたのである。
「終戦の日」にも特攻出撃
終戦の日の45年8月15日。この日にも特攻が行われた。
栗原の「特攻」によると、沖縄の特攻作戦を指揮した第5航空艦隊司令長官の宇垣纏海軍中将はこの日、大分航空基地にいた。宇垣は正午、ラジオで天皇の「玉音放送」を聴いた後、2人乗りの艦上爆撃機「彗星」5機を自ら率いて特攻することを命じた。結局、11機23人が宇垣と行動を共にし、戦死は宇垣を含む18人、5人は生還した。
〃特攻の父〃と呼ばれた大西が割腹自決し、宇垣も特攻死した。宇垣の特攻死を知らされた最後の連合艦隊司令長官小沢治三郎中将は「死ぬなら1人で死ね」と言ったという。
一方で、陸軍特攻の総責任者である第6航空軍司令官菅原道大(みちおお)中将の対応は大西や宇垣とは違った。菅原は特攻隊の出撃に際して「我々も続く」と部下を送り出していた。45年8月15日、部下の参謀から「自分もお供します。ご決心を」と言われたものの「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない」と進言を退けた。
第6航空軍司令部は福岡にあり、ここには特攻に出て帰還した特攻隊員を軟禁する「振武寮」という施設があった。菅原は「振武寮」で、帰還隊員に訓示をたれ、担当参謀の倉澤清忠少佐が帰還隊員に「人間のクズ。全員切腹ものだ」などと厳しく叱責する姿が大貫健一郎・渡辺考の「特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た」(朝日文庫)により暴露されている。大貫少尉の体験を渡辺がNHKのドキュメンタリーにし、それを本にまとめた。菅原は95歳まで生きて天寿をまっとうした。
海軍の第3航空艦隊司令長官寺岡謹平中将も「終戦の日」に特攻機を出撃させ、戦死者を出している。93歳まで生きた。特攻を命じた側である最高指揮官の対応はそれぞれ異なる。司令官の「後からおれも行く」との言葉を信じて、敵艦に突入していった特攻隊員に、生き残った司令官たちは、どのような言い訳をするのだろうか。「戦争だったから」で済む話ではない。戦争責任には、特攻をさせた「特攻責任」もあるのではないか。(敬称略) (第3回に続く)
(注) 森史朗「特攻とは何か」(文春新書)、神立尚紀「特攻の真意」(文春文庫)、栗原俊雄「特攻ー戦争と日本人」(中公新書)、森本忠夫「特攻」(光人社NF文庫)、高木俊朗「陸軍特別攻撃隊」(文芸春秋)、鴻上尚史「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(講談社現代新書)、藤原彰「餓死した英霊たち」(青木書店)、保阪正康・近現代史編纂会「写真で見る太平洋戦争Ⅱ 玉砕の島々と沖縄線終戦への道」(山川出版)、池田清・太平洋戦争研究会「太平洋戦争全史」(河出文庫)、大貫健一郎・渡辺考の「特攻隊振武寮 帰還兵は地獄を見た」(朝日文庫)などを参考にしました。