「戦後75年」「特攻」について考える 第3回 戦艦大和の海上特攻 大艦巨砲主義は過去の遺物となっていた

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 全長270メートル、基準排水量6万5000トン、世界最大口径の46センチ主砲を9門装備。建造費用は当時の国家予算の6%に当たり、当時でも約1億4千万円だった。GDPや物価など指標が全く異なるので、このような比較は難しいが、現在の一般会計予算でいえば6兆円と1隻だけで防衛予算を超える計算だ(ちなみにイージス艦は1隻1700億円である)。「戦艦大和」は当時、「不沈艦」といわれた世界最大の戦艦であった。

 このような巨大な戦艦を造らせた「大艦巨砲主義」の思想は、太平洋戦争開戦時(1941年12月8日)の空母艦載機による真珠湾攻撃や、12月10日のマレー沖海戦で英海軍の新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と巡洋戦艦「レパルス」が日本海軍の航空隊により沈没させられたことをみてもすでに過去の遺物だった。だが、このとき、日本海軍には、まだ戦艦同士による「艦隊決戦」を主張する「艦隊派」の影響が残っていた。

 しかし、実際は、海戦の雌雄を決するのは戦艦ではなく、主役は航空機と空母に取って代わられていた。「戦艦大和」は、沈むまでその名と存在は徹底的に秘密とされて国民は知らなかった。姉妹艦の「武蔵」(44年10月のレイテ沖海戦で沈没)とともに、海軍にとっては象徴的存在だった。3号艦の「信濃」は空母に変えられた。信濃は竣工10日後の44年11月29日、米潜水艦の雷撃を受けて沈没した。4号艦は解体された。

大和の「水上特攻」立案は昭和天皇の〃ご下問〃も影響

  栗原俊雄の「戦艦大和」(岩波新書)などによると、大和が就航したのは、開戦直後の41年12月16日。44年のレイテ沖海戦(サマール沖海戦)でその主砲は初めて使われた。このとき、46センチの主砲からは124発が放たれた。たが、その戦果ははっきりしない。これが、大和が敵艦隊に向けて主砲を放った最初で最後の戦いとなった。

 まさに沖縄戦が始まろうとしていた45年3月29日、昭和天皇に及川古志郎軍令部総長が沖縄の「天1号作戦」について「航空特攻を徹底的にやります」と奏上した。その際、天皇は「海軍にもうフネはないのか。海上部隊はいないのか」との〃ご下問〃があった。この〃ご下問〃が「大和の使い道」を考えていた海軍の上層部の「大和による水上特攻作戦」立案に影響を与えたとされている。もちろん天皇の〃ご下問〃が直接「大和水上特攻」を示唆していたわけではない。〃ご下問〃はその伏線にすぎないとみるべきだろう。

 44年12月、日本海軍最後の艦隊である第2艦隊司令長官に軍令部次長の伊藤整一中将が着任した。艦隊の参謀長は前大和艦長の森下信衛少将、大和艦長は有賀(あるが)幸作大佐。すでに海上から神奈川県の日吉に移っていた連合艦隊は大和など残り少なくなった水上部隊の使い道について迷っていた。戦況悪化で燃料が不足し、訓練すらままならなかったからである。そこで考え出されたのが、米軍により近い長崎県の佐世保に大和を回航して敵機動部隊をおびき出し、基地の航空機でたたく作戦だった。

 第2艦隊でも、大和の今後の使い方について①水上部隊最後の突入作戦を強行する②好機到来まで朝鮮に避難し、温存する③兵器、弾薬、人員を陸揚げして、残りを浮き砲台とするーとの3つの案を考えた。第2艦隊司令部としては、①は「目的地到着前に潰滅は必至」。②は「燃料不足で困難」。③案を伊藤に進言した。伊藤もこれを了承して連合艦隊に上げた。ところが、連合艦隊により、第2艦隊が一番可能性がないとみた①の「水上特攻」に決まった。「水上特攻」を強く主張したのは連合艦隊の神重徳参謀だった。神は個性が強く「神さん神がかり」とも評される〃過激派〃。こういう人は陸軍にも海軍にもおり、声が大きく、勇ましいことを言うので結局その主張が通る。昭和陸軍も海軍も、現在でもそういう人はいそうだが、このような人たちが無謀な戦争に導いたことを忘れてはならない。

 連合艦隊参謀副長高田利種少将の証言によると、神は「沖縄の浅瀬に大和がのし上げて46センチ砲を1発でも撃ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の士気は下がる。どうしてもやらなくてはいかん。非常な税金を使って大和を造った。それをなんだ。無用の長物だといわれるぞ」と主張したという。

 この声を当初は上層部も無視していたが、天皇の〃ご下問〃と「航空特攻だけでいいのか、水上部隊の特攻も必要ではないのか」などの海軍内の雰囲気、沖縄の戦況で、結局、45年4月5日、沖縄周辺の航空特攻と合わせた「作戦」として大和の海上特攻が決まった。

 この日午後2時前に豊田副武(そえむ)連合艦隊司令長官は「大和」などの第2艦隊に沖縄への特攻命令を出した。その上で豊田は翌4月6日、全軍に対し「海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するため」との訓示電報を打っている。しかし、大和の「水上特攻」について、海軍は沈没後、「特攻」とは認めようとせず、特攻死に与えられる「2階級特進」の恩恵も与えられなかった。沈没前に第2艦隊が「作戦中止」としたことが原因とされている。

「1億総特攻の先駆けとして」

 急きょ、4月6日、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長と三上作夫参謀が水上機で大和を訪れた。2人の説得に当初、伊藤第2艦隊司令長官は「この作戦にどれだけ成功の算があるか」となかなか納得しなかった。最後に草鹿が「いずれ1億総特攻ということになるのだから、その先駆けとして、立派に死んでもらいたい」というと、伊藤は「それなら分かった」といって了承した、とのエピソードが残されている。

 栗原俊雄によると、草鹿は戦後「大和特攻は自分の知らないところで決まった」とし、三上は「神参謀の発意だけでこのような作戦が取り上げられる訳がない」と証言している。連合艦隊内部でも相当の議論はあったようで、豊田が「大和は突入させる。協力しろ」と言ったとの別の参謀の証言もあり、最終的には、連合艦隊司令長官の決断があったことは間違いない。神参謀も戦後まもなく飛行機事故で死んでいる。まさに「死人に口なし」である。

 4月5日、大和では能村次郎副長が准士官以上の約80人を集め「水上特攻」の命令書を読み上げた。続いて全兵士を前甲板に集合させて有賀艦長が命令を読み上げた。能村はこのあと「日頃の鍛錬を十分に発揮し戦勢を挽回する神風大和になりたい」と訓示した。さらに、能村は、4月3日に乗艦したばかりの少尉候補生49人に「生存命令」を発し、退艦させた。この措置に多くの候補生が抵抗した。この日夜には「酒保開け」が出され、乗組員は最後の酒宴に興じた。

 4月6日午後3時20分、日本の最後の艦隊として大和、軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」の計10隻が山口県の徳山から出撃した。

 伊藤長官は「海上特攻隊の本領を発揮せよ」と訓示した。

 豊後水道から九州・坊ノ岬を航行。途中まで護衛の戦闘機がついたがやがていなくなった。燃料も当初は片道とされていたが、かき集めた4千トンで十分に往復分はあった。

 4月7日午前8時半過ぎ、「大和」は米軍の哨戒機に発見された。(6日夜には、米潜水艦に発見されている)。同正午すぎ、ミッチャー中将率いる米第58機動部隊の空母から発進した百数十機の大編隊が第2艦隊に襲いかかった。大和は120門の機銃、24門の高角砲がうなりを上げて砲火を開いた。(主砲は雲が厚くて撃っていないとの乗組員の証言がある)。立て続けに左舷前部に魚雷が命中、爆弾も直撃した。

 まもなく第2波が襲来、戦闘開始から約2時間後、大和は急速に傾きはじめ、有賀艦長が「総員最上甲板」と声をかけた。艦隊参謀長の森下が「もう、この辺でよいと思います」というと、伊藤は「そうか、残念だった」と言って作戦を中止した。艦橋にいた一同に敬礼して長官室に戻った。「その後沈没まで、長官私室の扉開かれず。(中略)第2艦隊司令長官伊藤整一中将、御最期なり」(吉田満「戦艦大和」角川文庫)

 艦長の有賀も戦死した。大和の被害は日米で記録が異なるが、魚雷8~12本、爆弾4~5発とされている。大和を攻撃した米軍機は戦闘機、爆撃機、雷撃機386機だった。このうち6機が撃ち落とされ、52機が被弾した。

 4月7日午後2時23分、大爆発が起き巨大な火柱とともに水煙が上がって大和は海中に没した。航程半ばであり、沖縄まで500キロもあった。このあと乗組員は海中に放り出された。海に浮かぶ乗組員に米軍は容赦なく、戦闘機から銃撃を浴びせた。

 駆逐艦4隻を除き大和以下6隻が沈んだ。公刊戦史である「戦史叢書 沖縄方面海軍作戦」によると、大和には3332人が乗っていた。このうち戦死は2740人、また、大和と共に出撃した第2水雷戦隊司令部の「戦闘詳報」によると、第2艦隊の戦死者は4044人に上る。

 フィリピンと沖縄での航空特攻での死者は全体で4千人弱だから、大和を中心とした「水上特攻」は、1回の出撃でそれとほぼ同等の被害となる。8月15日に特攻死した宇垣纏第⒌航空艦隊司令長官は4月7日の日記に「悲惨な結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる以外、何ら得るところなき無暴の挙」と書いている(一ノ瀬俊也「戦艦大和講義」)。

「負けて初めて目覚める」と冷静に見た大和の青年士官

 海軍少尉として大和に乗り組み、その経験から「戦艦大和ノ最期」を書いた日銀マン吉田満の本に臼渕磐(うすぶち・いわお)大尉という青年士官が登場する。臼渕は海軍兵学校出身の大和の哨戒長だった。配置近くの後部指揮所電探室への米軍の直撃弾で即死した。21歳だった。

 「戦艦大和ノ最期」の中で大和の「水上特攻」が決まって海軍兵学校出身者と学徒出身の将校が死をめぐって論議を始める。学徒出身者が「どうして護衛の飛行機もなくて、沖縄に行かなくてはいけないのだ。死んで何かが変わるという証がほしい」という。これに対して海兵出身者は「国のため、大君のために死ねる。これほどの幸せがあるか」と殴り合いのケンカになる。

 ここで止めに入った上官の臼渕が「日本は進歩を軽んじていたから、こんな戦争を始めてしまった。負けて初めて目覚める俺たちは日本の新生の先駆けとなって死ぬのだ」と両者をとくとくと説得するシーンがとても印象的だった。このように冷静に物事を見る職業軍人もいたのだ。

 最後に、航空特攻や大和の海上特攻以外の特攻兵器と成果・損害についてもみてみたい。44年4月、軍令部第2部長(軍備担当)の黒島亀人大佐(後に少将)は、第1部長(作戦担当)の中澤佑少将(後に中将)に「作戦上、実現を要望する兵力」として6項目を提示した。この中に後の「回天」「震洋」「桜花」につながる提案があった。こうして航空機以外の特攻兵器も1944年春ごろから次々と開発された。

訓練中の死者が最も多かった人間魚雷「回天」

 人間魚雷「回天」は超大型魚雷「93式魚雷(酸素魚雷)」に操縦席を取り付けて、特攻兵器に改造した。時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、ハッチは内部から開閉可能だったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。 直径約1メートルの魚雷に乗員1人の搭乗席を設け、これも約1メートルの潜望鏡を付けた。全長14・5メートル、爆薬1・6トンを搭載した。潜水艦から発進した。

 43年12月に黒木博司中尉と仁科関夫少尉が、その製造を訴えていた特攻兵器だが、当初、海軍の上層部は許可しなかった。ところが戦局の悪化により44年2月、人間魚雷の試作が始まった。7月には黒木が航走実験に成功、同年8月、海軍は正式に採用した。9月には、瀬戸内海の山口県の大津島に「回天」基地がつくられ、訓練が始まった。9月6日、黒木はもう1人の大尉と訓練中、事故で浮上できず、事故死した。海底で黒木は遺書を残していた。遺書には「今回の事故ハ小官ノ指導不良ニアリ、何人モ責メラルルコトナク、又コレヲ以ッテ、訓練ニ些カノ支障ナカランコトヲ熱願ス」などと書かれていた。
 
 回天の初出撃は44年11月8日、3隻の潜水艦からなる「菊水隊」はそれぞれ4基の「回天」を積んでいた。「伊47潜」は11月20日、仁科艇など4隻をを発進、石油を運ぶ米油槽艦1隻を撃沈した。僚艦の「伊37潜」は前日に米駆逐艦に撃沈されて乗組員と「回天」搭乗員の計116人は全員が戦死した。

 栗原俊雄の「特攻」によると、「回天」で出撃し、戦死したのは、母艦とともに戦死した4人を含めて計89人。訓練中に15人が殉職、「回天」を載せて出撃した潜水艦は延べ31隻、実数は15隻。15隻のうち、8隻が撃沈され、「回天」に関する戦死者は900人を上回る。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など1375人。操縦が難しく、訓練中の死者は特攻兵器の中で最も多い。

 日本は、1200キロの大型爆弾を積み、1式陸上攻撃機から切り離されてロケットで加速して敵艦めがけて飛ぶ「桜花」も開発した。桜花は「神風特別攻撃隊」出撃以前の44年8月に海軍軍令部から研究試作が命じられ、45年(昭和20年)3月、沖縄戦で投入された。「神雷部隊」と呼ばれ6月22日までに10次計55機が出撃した。

 45年⒋月10日、第3次桜花攻撃隊が陸攻8機、桜花8機で出撃、このうち1機が米駆逐艦1隻を撃沈した。桜花が撃沈した軍艦はこの駆逐艦1隻である。桜花戦友会では駆逐艦3隻としている。「ライター」とよばれるほど、火が付きやすい1式陸攻にから発進されるため、敵艦に近づく前に次々と落とされ、米軍は1式陸攻を「BAKA」と名付けていたという。

 250キロ爆弾を積んだベニヤ製モーターボートの「震洋」も登場した。震洋は約6千隻つくられたが出撃機会は少なく、主にフィリピンで使われた。戦死者は推計で2500人以上。陸軍も、爆弾を船尾に積んで敵艦近くで海中に投下する小型艇「マルレ」を配備した。

特攻で死んだ「自由主義者」の冷めた思い

 最後に特攻で死んだ人々に思いを馳せたい。

 陸軍の鹿児島県の知覧基地からは多くの学徒兵が飛び立った。保阪正康の「戦場体験者 沈黙の記録」(筑摩書房)によると、戦没学徒の遺稿集の「きけわだつみのこえ」(岩波文庫)の冒頭に出てくる上原良司(りょうじ)もその一人だった。

 上原の「遺書」と「所感」が目を引く。上原は慶応大学経済学部の学生として学徒出陣で長野県の松本連隊に入隊。特別操縦見習い士官となり、45年5月11日に陸軍特別攻撃隊第56振武隊隊員として沖縄・嘉手納湾の米海軍機動部隊に突入、特攻死した。

 「学徒出陣」とは、太平洋戦争中の1943年以降、兵力不足を補うため、それまで26歳までの大学生に認められていた徴兵猶予を文科系学生については停止して、20歳以上の学生を入隊・出征させた。その後19歳に。動員された学徒は10万人以上といわれる。特攻で死んだのは、戦争末期には、海軍兵学校や陸軍士官学校卒ではなく、学徒出身がかなりの数を占めているとみられる。朝鮮出身者の特攻死も20人と推定されている。

 「明日は自由主義者が1人この世から去っていきます。彼の後ろ姿は寂しいですが、心中満足でいっぱいです。言いたいことを言いたいだけ言いました。無礼をお許しください。ではこの辺で、出撃の前夜記す」と書かれた上原の「所感」について、保阪は「この一節に衝撃を受けた。こんな冷めた思いを書き残していった22歳の大学生、あれほど理不尽な時代に上原の心底に培われていた思想は、あるいは哲学はどんなものだったのだろうか」と書いている。

 「私は明確に言えば、自由主義に憧れていました。日本が真に永遠に続くためには、自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかもしれません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います」

 上原はさらに「遺書」ではこう書いた。いまの何となく、コロナ禍だけでなく、世の中のうっとうしい空気を考えると、上原の指摘した気分が再び押し寄せてきている何か嫌な予感がするのは私だけなのだろうか。

「特攻」煽った新聞の責任

 「『特攻』について考える」を終わるに当たり、メディアの責任も問うべきだろう。当時のメディアは、NHKラジオもあったが、新聞だった。1931年の満州事変以降、新聞は国民を戦争に駆り立てた。それは「戦争」により新聞の部数が伸びたからだ。特に「特攻」で国民を煽り続けた責任は、あまりにも大きい。その罪は特攻を「命じた指揮官」と同じである。1944年10月25日の特攻第1号の神風特攻隊敷島隊の戦果について、4日後の10月29日付1面トップ記事で新聞各紙は大きく報じた。朝日新聞の見出しは「神鷲(しんしゅう)=神風特攻隊のこと=の忠烈 万世に燦(さん)たり」「必死必中の体当たり」「機・人共に敵艦に炸裂(さくれつ)」とした。毎日新聞は「愛機に爆装体当たり」「敵艦もろ共轟炸(ごうさく)」「翼の軍神・敷島隊五将士」とした(栗原俊雄「特攻」から)。いまでは、現在の常用漢字を使っていないので、この見出しを読むだけでも難しい。ただ、新聞が特攻を賛美し煽っていることは語感から理解できる。新聞は戦後もこの責任をきちんと取らなかった。(敬称略)

(これで「特攻について考える」は終わりです)

(注) 栗原俊雄 「戦艦大和―生還者たちの証言から」 (岩波新書)、 栗原 俊雄 「特攻ー戦争と日本人」(中公新書)、一ノ瀬俊也「戦艦大和講義 私たちにとって太平洋戦争とは何か」(人文書院)、鳥巣建之助「人間魚雷 特攻兵器『回天』と若人たち」(新潮社)、日本戦没学生記念会「きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」(岩波文庫)、保阪正康「戦場体験者沈黙の記録」(筑摩書房)、吉田満「戦艦大和」(角川文庫)、吉田満「戦艦大和ノ最期」(講談社文芸文庫)、吉田満「提督伊藤整一の生涯」(文芸春秋)、粕谷一希「鎮魂 吉田満とその時代」(文春新書)などを参考にしました。