「学術会議任命拒否」(上) 背景に軍事研究参加への圧力 戦前の軍国主義科学にのみこまれるか 瀬戸際の学術・文化

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 菅義偉政権が日本学術会議の新会員の候補6人の任命を拒否した事件の異様さは、ウォッチドッグ21でも既に2氏が書いているが、1983年から84年の学術会議「大改革」なるものを取材した者として、何点か指摘したい。

戦前の軍事協力への反省から生まれる

 第1点は、学術会議は戦前の軍事に協力というか、飲み込まれてしまった日本の科学に対する反省から生まれたことだ。軍部と軍国主義政権に支配され「学界ボス」が仕切ってきた戦前・戦中の科学界の反省から生まれたのが、1949年1月の第1回総会で採択された『日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明(声明)』であり、当時のGHQ(連合国軍総司令部)の意向が強く働いた「科学者による会員選挙(公選制)」だった。

 安倍・菅政権の強権的な政策に批判的な科学者6人(いずれも人文・社会科学系)を排除した背景には、軍事研究参加への圧力があることは間違いない。このまま見過ごせば「戦後レジュームからの脱却」を掲げる安倍政権を継承する菅政権によって日本の科学、ひいては文化、社会全体が戦前のレジュームに戻されて仕舞いかねない危険性がある。

学問の民主化求めるGHQの意図で設立

 日本学術会議が長らく「科学者の国会」と呼ばれてきたのは、当初は科学者たちが自らの手で会員を選出するという公選制だったためだ。当初から定員は210人で、当選した会員は非常勤特別職の国家公務員となる。

 戦前の科学界の反省から生まれ、公選制となった経緯を簡単に振り返ってみたい。第2次世界大戦(太平洋戦争)時の科学動員は1937年に設立された企画院に39年「科学部」が新設されたころから急展開する。41年5月には「科学技術新体制確立要綱」が定められ、「高度国防国家完成の根幹たる科学技術の国家総力戦体制を確立し、科学の画期的振興と躍進的発達を図る」として、翌42年には技術院と科学技術審議会が公布施行され、科学の軍事動員への法的位置が定められ、多くの科学者が戦争に協力した。

 こうした科学の軍事動員に目を光らせていた連合国は、日本占領直後の1945年に米国から「科学情報調査団」を派遣して、全国の科学者コミュニティーを調べ上げた。その結果、戦前に創設され、学界ボスが跋扈する日本学士院ではなく、新規に全科学を網羅する組織として、占領下の49年にGHQの「すべての日本の民主化」という流れに沿って創設されたのが日本学術会議でだった。

「とりきたった態度を反省」

 最初の会員選挙に先立って公布された日本学術会議法(1948年7月10日施行)の前文では「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と連携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」と書かれている。

 そして、それ以上に重要なのは、先に示した声明である。法の前文が役人の作成した文章なのに対し、この声明は第1期の当選会員の手でまとめられたものだからだ。

 この中で、第1回総会の席上、論争が起きたのは声明の中の「われわれは、これまでのわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し」という一文である。敗戦後の占領下で新設された会議でありながら、法の前文にも声明にも「戦争」という言葉は一切ない。このため羽仁五郎会員や武谷光男会員から厳しい意見が出たが、特に医学部門の第7部会員の反対で原文のまま採択された。
 そして、これが長く影響することになった。

会員選出を公選制から推薦制へ

 日本学術会議の性格が大きく変わったのは、1984年。各専門分野や地方別の登録者が選挙の有権者となっていたが形骸化しており、再選を妨げないとしていたので、新たな「ボス」の存在が指摘されるようになっていた。「停滞を脱却するために」と会員選出方法を公選制から学会推薦制に法改定され、研連と呼ばれる各研究団体が会員候補を推薦することになった。第1回総会から35年経ち、当初の熱気は薄れ「何をしているのか分からない」などの声を、当時の中山太郎総務相らがうまく拾って、研連推薦制に変更したものだ。各部会ごとに計210人の会員候補を選出、会議として内閣に申請するという形に改められたが、当時の政府は「(選挙の当選者ではなく)推薦された候補者となったため、内閣総理大臣の任命という形式になった」と説明。任命はあくまでも形式的なものとしてきた。

 実際、1983年5月12日の参議院文教委員会で、当時の説明員の高岡完治氏は「従来の選挙制が今回の改正法案によりまして推薦制ということに代わるものですから、特別職国家公務員としての日本学術会議会員としての地位といいますか、法的な地位を獲得するためには、何らかの発令行為がどうしても法律上要るということでございます。内閣総理大臣の発令行為と申しますのは、それに随伴する付随的な行為と解釈をしているところです」と答弁。

 また別の政府委員、手塚康夫氏も「実際に総理大臣の任命で会員の任命を左右するということは考えていません」と答えている。こうした答弁を受け、当時の中曽根康弘首相も国会で「政府が行うのは形式的任命にすぎません」と答弁していた。

 こうした「形式的任命」というものは、天皇の国事行為である「内閣総理大臣の任命」と同等ではないかとの指摘する人がいる。憲法第6条では「天皇は、国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命する」としている。同じように「内閣総理大臣は、学術会議の推薦に基づいて、会員を任命する」となるが、今回のように天皇や宮内庁が「憲法の解釈を再検討すれば、総理大臣の任命拒否が行える」と「任命権」を持ち出したら飛んでもないことになるだろう。

2018年に法律の「解釈変更」

 今回、内閣府の職員は野党の合同ヒアリングで、2018年に内閣府が内閣法制局に要請し「総理大臣の任命拒否は可」とする解釈を作成したと説明。今年9月上旬(つまり安倍前首相が退陣を表明したが、まだ首相の地位にあった時期)にこの解釈を再確認したと答えている。この時期がいつかは明確ではないが、菅氏は自民党総裁選中の9月13日、フジテレビの番組で「私ども(政治家は)選挙で選ばれている。何をやるという方向を決定したのに、反対するのであれば異動してもらう」と表明していた。

 学術会議会員の会員は3年ごとに半数が入れ替えられており、会議で推薦された新規メンバーは10月1日からの任期を前にして、8月31日に内閣府に届けられた。9月16日の菅政権発足後の24日、内閣府は6人の任命拒否案を起草し、28日決裁されたという。

 任期途中の補充会員推薦ではあったという任命拒否だが、これだけまとまった例は過去にないという。なぜ学術会議に手を突っ込んだのだろうか。そのキーワードは2018年の「解釈変更」だろう。解釈変更に踏み切った背景は2017年に学術会議と学界を揺るがした研究と軍事のあり方の議論だ。敗戦時の「反省」から生まれた学術会議だったが、これまで何度も軍事研究とのせめぎ合いにあってきた。その中でも17年の声明は日米同盟の下、軍事的な関与を高めようという安倍・菅政権にとって妨害と映ったに違いない。

(続く)