✺神々の源流を歩く✺第13回 「出雲の神々ー日御碕神社」 

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素戔嗚尊が姉の天照大神を見下ろす日御碕神社

 島根半島の西北端の岬にある日御碕(ひのみさき)神社を訪れたのは快晴の秋の一日で、目の前に海が開け深い青さが印象的だ。それを背景にした緑に囲まれた朱塗りの建物が、また豪壮に見える。岬の先端にあるためか、社域は起伏があってそれほど広くはないが、そこに14棟もの重要文化財の社殿が並んでいて、ここからの眺望がまたすばらしい。

「韓国神社」の扁額

 楼門を入って正面が下宮、右手の小高いところが上の宮で素戔嗚尊(すさのおのみこと)、低いところの下の宮の天照大神がある。不思議なのは古事記や日本書紀では姉とされている天照大神が下社で、弟の素戔嗚尊が上社で見下ろす関係にあることだった。出雲では人々は素戔嗚尊に親しみを感じているのかもしれなかった。

 境内を少し歩くと、上の宮の摂社として「韓国神社」という扁額のかかる境内社を見つけた。韓国といえば朝鮮半島の新羅とか伽耶を指すと言われる。新羅は太陽信仰が強いとされ、板門店を訪れた時に、ここから太陽が昇る方向に歩いて行けば、黙っていても「浦項市の迎日湾に出ますよ」と言われたことがある。日御碕神社も、太陽信仰と関係がありそうな名前である。

 日は西に傾いて、少し待てば素晴らしい日本海の落日が見られますと言われた。バス停はすぐそこにあっても、次のバスが来るまでには一時間以上待たなければならなかったので、落日は割愛せざるを得なかった。

「神社ははじめ国家とのつながりなかった」

 金達寿氏は名著「日本の中の朝鮮文化」8巻で、今は合併されて出雲市多伎町になっているが、多伎町の前身、岐久村の「岐久村誌」を紹介している。国立国会図書館で分厚い「岐久村誌」を見つけ、ネットで見せてもらい、神社の起源という項目をみると、「神社と氏子」の項目でこう記している。

 「神道でいう『カミ』とは字義的には『上』であるが、実質的に祖霊である。他の宗教でいうような、ある象徴化された理念ではなく、現実に吾々と血のつながった祖先の魂であるという点に大きな特色があった。故にそうした神を祭る神社は、古来、原則として氏神であり、これに奉仕する人は、その神の子孫であるか、しからずともその神の子孫であるという自覚の上に立つものであった。つまり神社と氏子の関係は本来、祖先と子孫の関係に一貫していたのである」

 さらに別の箇所で、「神社は独立した状態で発生し、各社相互間はもとより、はじめは国家とのつながりはなかった」と指摘している。

見識のある指摘の岐久村誌

 各地の神社を訪ね、神社関係の資料を読ませてもらうが、創建の歴史など、どこまでが神話でどこからが史実なのかなど、はっきりしないことが多い。なかには権威づけのためにか有名な中央の神を合祀することもあるから、さらに分かりづらくなる。「岐久村誌」は昭和35年4月1日発行とあり、あとがきに3人の編集委員の名前が掲げてあるが、なかなかの見識のある指摘だなと感心させられた。