「開戦の日の社説」獄死した反戦川柳作家を主軸に展開 学術・表現弾圧は戦争への道 歴史の教訓学ぶ大切さ訴える東京新聞社説

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 東京新聞は12月8日付社説で、「鶴彬獄死の末にある戦」という見出しで戦前の反戦川柳作家・鶴彬を取り上げた。社説は、鶴の作品と川柳弾圧を主軸に、79年前に日本が米英に宣戦布告し戦争を始めた開戦の日を振り返りながら、現政権による日本学術会議会員候補の任命拒否という足元の事象との関連で論を展開、学問・表現に対する弾圧は戦争への道につながるという歴史の教訓を学ぶことの大切さを訴える異色の論説となっている。

〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉 

 東京新聞の社説(中日新聞も同文)は次の記述から始まる。
 「鶴彬(つるあきら)という川柳作家をご存じでしょうか。日本が戦争へと突き進む中、貧困と反戦を詠み、治安維持法違反で逮捕、勾留中に病死しました。苛烈な言論統制の末にあったのは…。七十九年前のきょう破滅的な戦争が始まります」

 鶴彬は1909(明治42)年生まれ。出身地は中日新聞のエリア・石川県かほく市で、社説は鶴の略歴とその時代に言及した後、川柳誌「川柳人」1937(昭和12)年11月号に掲載された代表作(上記の中見出し)の他に次の句も紹介している。

  <万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た>

  <胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき>

 一叩人(いっこうじん)編『鶴彬全集』(たいまつ社、1977年)によると、この3句を含め6句が鶴最後の作品となった。というのは、鶴の川柳を危険思想視した特高警察が1937年12月に鶴を野方警察署(東京都中野区)に勾留し、鶴は翌年9月、赤痢のため移された病院で死んだとされている。29歳だった。 

川柳の次に俳句が標的に

 8日付の在京6紙の社説・主張の見出し(1本目)は次の通り。
 朝日①戦争と学問②国土強靱化◇毎日①GoToの延長方針②少人数学級導入◇読売①中国の豪州威嚇②大飯原発判決◇日経①経済対策の規模が膨らみすぎてないか②石油 需要回復に潜む危うさ◇東京①鶴彬獄死の末にある戦◇産経①はやぶさ2②鳥インフル拡大

 開戦の日をテーマにしたのは朝日と東京の2紙。日本の新聞の社説は元日、憲法記念日、原爆忌、8・15といった節目の日には、大型の1本社説が通例で、論説委員長・主幹みずから筆を執ることがある。開戦の日はこれらに準じた日だが、今年は開戦79年で“切りのいい年”ではないせいか、朝日と東京以外は別の問題を扱った。

 両社の社説に共通しているのは、開戦の日にちなみ、眼前の学術会議会員候補の任命拒否という学問、表現の自由侵害を歴史の中で捉えるという発想で書かれている点だ。東京新聞は、長文の1本社説となっている。

 学術会議問題に関連しては、1933年の「滝川事件」(政権が滝川幸辰京都帝大教授の自由主義的刑法学説を危険思想として攻撃・弾圧した事件)に言及した記事や放送はある。例えば、TBSテレビ「報道特集」(10月17日)のタイトルは「6人の任命拒否は誰の判断だったのか? 官邸のキーマンとされる人物とは? 戦前の滝川事件から学ぶ教訓は?」で、滝川事件を詳しく伝えた。

 しかし、学術会議問題で反戦川柳とその弾圧について記述した記事は寡聞にして知らない。東京新聞の社説は、川柳弾圧の後、「新興俳句も弾圧され、表現の自由は死に絶えます」とし、最後の段落で「学問や言論、表現に対する弾圧は、戦争への道につながる、というのが歴史の教訓です」と記している。

川柳でまさか反戦、タカくくる 

 鶴彬の作品について、私は時事川柳作りを日課とするようになった今春、その参考書・田辺聖子『川柳でんでん太鼓』(講談社文庫、1988年)で初めて知った。田辺は「手と足を…」に関し、「昭和十二年の作である。そこが凄い。戦後に復員兵や傷病兵がよんだのではない。日中戦争のまっただなかで、川柳作家が堂々と発表している」「鶴彬は、『してかへし』と、かえした国家に対して、人民の怨嗟を匕首のようにつきつけている」と書いている。

 さらに田辺は、「俳句が上、川柳が下」という「世間の人の川柳観」に触れた後、「鶴彬の命を賭した川柳についてさえ、書かれることは少ない」とし、著名な昭和文学史に「鶴彬のツの字も記載されていない」と述べている。そして、鶴が特高警察に逮捕された時期が、小説家小林多喜二が特高によって拷問・虐殺された4年も後だったことに注目。「(特高が)川柳にはまさか、反戦、反政府、皇室を冒涜・誹謗するような作品はあらへんやろ、とタカをくくっていたふしがある」と当時の「特高の気分」を推測している。

時事吟は最底辺でひしがれてvs時事川柳スケール大きく天に舞う 

 川柳の社会的評価について、とくに時事吟は現在も「日本の文化ピラミッドの最底辺」とする論がある。イラストレーターで似顔絵の名手・山藤章二の言葉だ。山藤は自著『人の噂も五七五』のあとがきで「時事はキワモノといって、これまた完全に蔑視されてきた。従って、“時事川柳”となると、日本の文化ピラミッドの最底辺で押しひしがれ、もう、半分、地中にもぐり込んだ状態で存在しているようなものだ」と記述している。この本から彼の佳句を一つ。

   〈尺玉の如くに大輪天に散り〉   (1981年夏)

 時事川柳はその時代を共有していないと理解不可という作品もあるが、この句の横にはテレビドラマ脚本家向田邦子さんの似顔絵が描かれいる。日本文化のボトムを担う二大表現・時事川柳と似顔絵を結集した、と山藤は説明している。「押しひしがれ」ているどころか、〈尺玉の如く…〉は、「時事川柳スケール大きく天に舞う」という印象を与える。

 山藤は川柳の選者として、川柳を公募して月刊誌に載せる仕事もしている。日本の政治の最高権力者・首相は川柳の格好のネタだが、次は山藤が選んだ句。   

  〈何はとも眉毛の手入れ指示はあと〉  (渡辺堅太郎)
   *山藤章二『ぼけせん川柳一○○○句』(講談社α文庫)所収

 1995年の阪神・淡路大震災直後、村山富市政権の初動の遅れを痛烈に批判した内容だが、ニヤリとさせられる粋な川柳だ。

洒脱とは対極にある菅政権

 首相をサカナに「何はとも眉毛…」のような変化球の川柳を作りたい。そう思うのだが、菅義偉首相の言動からは、洒脱、遊び心にあふれた川柳は作りにくい。理由は①菅政権は携帯料金値下げなど受け狙いの個別政策を強調する(釣りに例えると)“コマセまき内閣”でメーンのビジョンが不明確②説明拒否の“差し控えます内閣”③人事で脅迫する陰湿官邸-の3点だ。

 当ブログwatchdog21.comの「ウォッチドッグ川柳」から柳名・風哲の句から首相がらみの5句を選んだが、直球の句ばかりだ。

   〈俯瞰すりゃ若手少ない菅内閣〉 (10月28日)
   〈改訂版記録残さぬ覚悟なり〉 (10月21日)
   〈宇宙時代事務方という特高あり〉(10月14日)
   〈問答無用6人切れっと菅人事〉 (10月2日)
   〈無策でも首相になれる拉致大臣〉 (9月17日)

ガースーよ会見開きネタ寄こせ 

 菅首相は短時間のぶら下がりインタビューには応じているが、記者の質問が続いているのに答えないで、背中を向けて記者立ち入り禁止ゾーンに消えて行く。内閣支持率の低下を招きそうなこのシーンを民放テレビは何回も放映していている。一方、菅首相は11日、インターネットの動画配信サイト「ニコニコ生放送」に出演し、冒頭で「皆さん、こんにちは、ガースーです」とおどけてみせた。しかし、菅首相は就任から約3カ月の間、大型の記者会見は2回(就任時と臨時国会閉幕時)しか開いていない。川柳詠みとしては、これがネタ不足の主因となっていて、痛い。

 首相会見の方法も、コロナ時代になって3密防止を理由に出席記者数を極端に限定、質疑応答の時間も少ない方式になっている。これを改め、フリーの記者を含めた多数の記者の質問に答える時間を十分とって説明をすることを求めたい。記者会見の開催と丁寧な説明を求めるのは、記者会見は、目の前の記者を通じて、知る権利を持つ国民に向けてメッセージを送るものだから、というのが真っ正面からの理由だが、首相の言葉は辛辣ながらも軽妙な川柳を作るための不可欠な要素だからだ。

 日本の報道の自由度は、国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が毎年発表している報道自由度ランキングによると、2020年は180の国・地域のうち66位だった。2010年には最高の11位だったが、安倍政権下で下降した。それでも、鶴の時代のように、政権批判は命懸けという状況には至っていない。新聞には川柳投稿欄があり、当ブログは発足時の3月から「ウォッチドッグ川柳」をメニューの一つとし、5月からはブログ“正面の看板”下にも表示している。時事川柳は、「寸鉄人を刺す」のことわざ通り、五七五で政治や社会の矛盾、人の本質に迫ることができる。それを発表する場が保障されているのだから、川柳を作り続けない法はない。政権をも笑い飛ばす柳友が増えることを期待して、本日はこの辺でお開きとしたい。(12月12日記す)

◇出典について
(1)『鶴彬全集』はA5判474ページの大著。編者・一叩人が全国に散在する資料を集めた、と全集付録にある。出版社「たいまつ社」(東京都新宿区)は、一叩人『反戦川柳人・鶴彬―作品と時代』 (たいまつ新書、1978年)も出版している。
(2)山藤章二『人の噂も五七五』は文藝春秋・1984年刊。80年春から82年冬の時事川柳が中心。「向田さん翼禍」のページには、句の横に猫を抱いた向田さんが雲の上にいる似顔絵がある。
(3)山藤章二『ぼけせん川柳一○○○句』は講談社α文庫・2007年刊行。川柳の初出は『月刊現代』1995年6月号~2004年1月号の「山藤章二の〈ぼけせん町内会〉」。山藤が町内会長で公募作の選者。〈何はとも眉毛…〉は巻頭の句。