「澤藤統一郎の憲法日記」というブログを連日出している澤藤統一郎弁護士が化粧品会社、ディーエイチシー(DHC)との間で闘っていたスラップ訴訟に完全勝訴した、というニュースを知り合いのメールで知った。澤藤氏は勝訴確定を受けた1月21日に東京地裁記者クラブで会見したとのことだったが、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞の各紙上では見かけなかった。しかしニュース系ブログを出している者にとっては人ごとではない事件であり、スラップ訴訟とは何か、どんな訴訟だったのかなどを紹介したい。表現の自由を阻害する目的でスラップ訴訟が多発される背景には、大手メディアで顕著となっている報道の萎縮と逃避が、弱者攻撃を許す土壌となっていることが浮かび上がってくる。
ブログ記事に超高額賠償請求
澤藤氏が被った訴訟については、本人が2016年10月31日付の朝日新聞社の言論サイト、WEBRONZAに『スラップ訴訟の実害と対策〜私の経験から』との記事を投稿して具体的に述べている。また連日休みなく続けているという『澤藤統一郎の憲法日記』「『DHCスラップ訴訟』を許さない・第181弾」(1月21日)でも詳しく書いている。
それによると、澤藤氏は2014年3月27日発売の週刊新潮4月3日号に掲載された、当時みんなの党代表だった渡辺喜美議員に8億円の資金提供をしたと暴露したDHCの吉田嘉明会長の手記『さらば器量なき政治家・渡辺喜美』の記事を受けて3本のブログを書いたところ、同年4月にDHCと吉田氏を原告とする2000万円の損害賠償請求訴訟を起こされた。
ブログにあった「政治をカネで買おうとするもの」などの表現が名誉毀損にあたるとの主旨で、原告側はその後賠償金額を6000万円につり上げたが、1審、2審とも被告側の全面勝訴。16年2月には最高裁が原告側の上告受理申立不受理を決定し、確定した。先のWEBRONZAの投稿記事はそのころのものである。
ではなぜ、今年の1月になって裁判が完全に確定したかというと、DHCおよび吉田氏側が損害賠償請求訴訟で敗訴が決まった後に「債務不存在確認請求訴訟」を起こし、逆に澤藤氏が損害賠償請求の反訴を提起したためである。今年1月その反撃訴訟でも完全勝訴し、最終的に決着したというものだ。
弱者の言論圧殺がスラップ訴訟の狙い
では、なぜ本裁判がスラップ訴訟と言われるのか。オンライン辞書のウィキペディアによると、スラップ訴訟とは「社会的にみて『比較強者(社会的地位の高い政治家、大企業および役員など)』が社会的にみて『比較弱者(社会的地位の低い個人・市民・被害者など公の場での発言や政府・自治体などへの対応を求める行動が起こせない者)』を相手取り、言論の封殺や威嚇を目的として行われる訴訟」という。恫喝訴訟、威圧訴訟などとも訳されるというが、スラップ(SLAP)を直訳すると「市民参加を排除するための戦略的訴訟」であり、この方が本質をついているとも思える。
澤藤氏のブログを読み返しても、氏がWEBROMZAに書いているように「吉田氏には耳の痛い内容だが、まさか提訴されるとは思わなかった」レベルの記載である。これに当初2000万円、その後6000万円に増額した極端に高額な損害賠償を求め、提訴された側を心理的に圧殺しようとするのが、スラップ訴訟の特徴だ。
スラップ訴訟の定義について、最初に提唱した米デンバー大学のジョージ・プリング教授とペネロペ・キャナン教授は次の4要素をあげている。
- 提訴や告発など、政府・自治体などが権力を発動するよう働き掛ける(裁判への提訴や捜査機関への告発など)
- 働き掛けが民事訴訟の形を取る
- 巨大企業・政府・地方公共団体が原告となり、個人や民間団体(例えば住民団体)を被告として提訴
- 公共の利益や社会的意義に係わる重要な問題(製品の安全性など)を争点とする
訴えられた側(社会的比較弱者)に対して、超高額の損害賠償を求めるだけでなく、被告側に弁護士費用や時間の消費、肉体的・精神的疲労などを負わせ、反対や批判を続ける意欲や能力を失わせようとするもので、訴えの内容、方法などに合理的な訴訟ならあり得ないような道理に合わない点があることも特徴とされる。
根拠のない訴えに「違法」とした例も
スラップ訴訟とそれに対する反スラップ法の整備が進んできた米国と異なって、日本ではDHCのようなスラップ訴訟に対して毅然とした判決を下した例は少ないという。その中で具体的な判例が示され、被告側が勝訴したケースが2019年千葉地裁松戸支部であった。「NHKから国民を守る党(N国党)」の市会議員がフリージャーナリストを訴えたものだったが、同支部は①訴えに事実的・法律的根拠がない②それを知りながらあえて提訴した-として、「裁判制度の趣旨に照らして著しく正当性を欠く時に限って」としながら市議の提訴を違法と認定した(19年10月27日付け日経新聞)。市議は東京高裁に控訴したが、高裁は一審判決を支持する判断を示している。
だが、裁判でスラップ訴訟が認めらるケースは少数だという。澤藤氏によると、スラップが違法とされる要件は、「その訴訟は客観的に勝てない」ということを前提とし、「提訴者が勝てないことを知っている」あるいは「常識的に勝てないことが分かるはず」と判断されれば、N国党の判例のように違法スラップと認定される。
しかし、それを立証するのは訴えられた被告側である。澤藤氏はDHCのスラップ訴訟に徹底的に闘うと宣言し、100人を超す弁護団を得て、完全勝訴にこぎ着けた。しかし普通の市民やフリージャーナリストにはハードルが極めて高い。DHCと吉田氏は澤藤氏を訴えた当時、同じ時期に10件、似た提訴をしたが、反撃できたのは澤藤氏だけだったという実態がスラップ訴訟対策の難しさを示している。
ジャーナリズム全体の萎縮がスラップを手助け
澤藤氏は、日本でスラップ訴訟が増えている背景として「ジャーナリズム全体に萎縮状況があることが基本的な原因」という。安倍晋三前首相時代からの首相会見であからさまになった「予定原稿の読み合わせ会」と揶揄されるメディア側の忖度ぶり。問題の所在を突き詰めようとせず「野党はどう追及するのでしょうか」などと逃げ腰に終始する解説陣。どんどん言論の幅が狭められと、昨日までは普通にしていた発言内容も圧殺しようとするのがスラップ訴訟といえる。逆に言論が封じ込められないようにすることが、スラップ訴訟を起こさせないことにつながる。
「ニュース女子」で問題になったDHC
ところで、スラップ訴訟で完全敗訴したDHCという名前を、サプリメントや化粧品以外で覚えている人は少なからずいると思う。東京ローカル局「TOKYO MX」で地上波放送していた「ニュース女子」というニュース解説番組を製作している会社だ(今もネットでは放送を続けている)。「ニュース女子」は2017年1月に放映した沖縄県東村高江での米軍ヘリパッド建設への抗議行動を「テロリストみたい」とか「1日5万円の日当を貰っている」「救急車の行動を妨害した」などと事実無根と証明された内容を番組内で報じ、放送倫理・番組向上機構(BPO)から「重大な放送倫理違反があった」と認定された。
「ニュース女子」はTOKYO MXが制作したのではなく、DHCシアター(当時、現在はDHCテレビ)というDHCの子会社が制作して完成版を同局に納品するという「完全持ち込み番組」で、DHCは番組のスポンサー企業ではなく制作会社だった。しかし完パケという製品を放映したTOKYO MXは社会から大きな批判を浴びた。ただ、あまり報道されなかったが、報道内容が問題になった当時、「ニュース女子」はかなりの数の地方ローカル局でも放送されていた。
DHC化粧品の広告は今でも朝から晩まで流れ続けており、民放テレビ局にとってはアパホテルと並んで「大事なお客様」だ。従って、反DHC的な記事が報道されるケースは極めて少ないのが現状だろう。コロナ禍で民放局の経営がどこも厳しくなっている今日、メディアがカネの力に屈する恐れは否定できない。