✺神々の源流を歩く✺

投稿者:

第19回「滋賀県新羅善神堂」

 京阪電鉄石山寺で降り、夕照で有名な瀬田の唐橋を見て、新緑の中を新羅善神堂に向かって歩いていたら、いつの間にか広大な三井寺(園城寺)の境内に入っていた。

境内で源義光が元服

 いったん大津市役所前に戻り、少し先ある弘文天皇陵の大きな鳥居の奥に新羅善神堂(しんらぜんじんどう)がある。三井寺の北院にあたる。かつては新羅神社、新羅明神とも呼ばれ、三井寺の鎮守社になっている。「堂」とあるのでお寺を思わせるが、建物は流造(ながれづくり)の神社の本殿で、祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。「源義光」がこの社前で元服をして「新羅三郎義光」と名乗ったことでも知られる。

 寺に神社があるのは不思議に思われるかもしれないが、明治維新の廃仏毀釈までは神仏習合の時代が続き、寺に神社が、神社には寺が祀られてあるのは普通のことで、お互いに悪霊を祓い清める役割があったとされる。

 コロナ禍に見舞われる前だったので、三井寺の中院にある金堂には観光バスがひっきりなしに着いて観光客で賑わっているのに、北院にある新羅善神堂は、建物も中にある新羅明神座像も国宝だが門は閉じられ、石段には枯葉が散らばり手入れされていない様子だった。

 この北院には明治維新の廃仏毀釈から、仏像の海外流出を防いだフェノロサや新羅三郎義光の墓、弘文天皇陵などもあるが、ここも人影はまばらである。

弘文天皇は渡来系の大友氏とかかわりか 

 「龍華会縁起」によると、三井寺と深い関係のある円珍は、唐で密教を修行して帰る途中に夢に新羅明神が現れ、持ち帰った経典類を三井寺に保管するよう勧めたという。その三井寺は、大友皇子(弘文天皇、天智天皇の子)の子、大友与多王が、皇位継承をめぐる壬申の乱(672年)で大海人皇子(後の天武天皇、天智の弟)に敗れた父、弘文天皇の霊を慰めるために創建し、天武天皇が「園城」という勅額を与えている。
                
 さらにその昔には、この地は渡来系の豪族大友村主(すぐり)が開拓した大友郷で、氏寺もあった。弘文天皇は大友皇子と称し、陵もここにあるということは、渡来系大友氏とかかわりがあったことがうかがえる。

最澄は生源寺生まれの新羅人か

 琵琶湖の西側、つまり比叡山側は広く新羅系渡来人によって開発されたといわれる。三井寺とも関係の深い比叡山延暦寺の開祖、最澄は大津市坂本の生源寺に生まれ新羅人とされる。少し北上した高島市の白鬚神社は全国の白鬚神社の総本社で、百済、高句麗系の渡来人からも崇敬されている。白鬚神社の背後に続くなだらかな比良山一帯には渡来人の古墳が多い。小野妹子の墓も近くにある。

 新羅明神坐像は秘仏で見ることはできないが、博物館の展覧会に公開された写真をみると、坐像の顔は白く塗られ目尻が下がり、手の指も細長くやや異様な感じがする。山形の帽子は新羅の両班(ヤンバン)の帽子という。大津市歴史博物館には、市内の遺跡から出土した珍しいミニチュアの韓かまど(新羅で使われた炊飯具)やオンドルも展示されている。

 往時、朝鮮半島の百済と新羅は絶えず緊張関係にあった。新羅善神堂が、百済救援に船団を派遣するなど親百済策をとった天智天皇の皇子、弘文天皇の陵を監視するかのようにあることは何か歴史の因縁を感じさせる。