立憲民主党の小西洋之参院議員が3月2日に公表した放送法の「政治的公平」を巡る総務省文書について、国会では、与野党の攻防が続く。5日後の7日には、政府は内部調査の結果、「一部にはその正確性が確認できないものもあるが、この文書のすべてが総務省の(公文書管理法上の)行政文書であることが確認できた」と発表した。当時の高市早苗総務相(現経済安全保障担当相)が「自分の関係する部分の4枚の文書は捏造で内容は不正確だ」と国会答弁で繰り返し主張。さらに、文書が捏造でなかった場合には議員辞職も辞さない、との考えを示していることが事態をややこしくさせている。
22日には総務省は「文書に捏造があったとは考えていない」との見解を示した関係者証言をまとめた文書を発表、調査はこれで最後とする考えを示した。今国会会期は6月21日までだが「政府・与党は23年度当初予算案を28日の参院本会議で可決、その後、予算委員会は当面予定されておらず『開店休業』に近い状態になるとみられる。このため、高市氏は〃逃げ切った〃とみるむきもある」(毎日新聞3月24日)と報じられている。
文書の信用性高まる 安倍氏関与の可能性も
この問題で高市氏が当時、担当の総務相だったことや国会での〃解釈変更答弁〃の当事者であることは確かに重要ではある。しかし、この問題の本質は、総務省文書の真偽にあるのではない。むしろ、細かい部分でのその正確性は別にして、総務省調査が「捏造」を否定したことで文書の信用性は高まったのは事実である。また、故人なので事情は聞けないが、この調査結果から見て、文書での一連の議論に安倍晋三元首相が関与していた可能性は一段と高まった(23日付東京新聞)ともいえる。
文書を「捏造」とする高市氏の発言にひきずられてはことの本質が見えなくなる。そうではなく、この文書の最大の問題は、安倍政権時代に放送法の「政治的公平」について、執拗に官邸が総務省担当者に解釈変更を迫るという強権的な政権による言論統制の経緯が具体的に明らかにされたことにある。首相が教団票の差配までしていた「統一教会問題」に続いて〃負の遺産〃として安倍政権による「言論統制」の陰湿な手口があぶり出されたことに大きな意味がある。この問題は時の政権による放送番組への介入、あるいは憲法上してはならない「検閲」という民主主義の根幹を揺るがす「放送の自由」に関わる大問題である。だからこそ、「国権の最高機関」である国会は、国会での関係者の証人喚問や参考人招致などと並行する形で、国会が主導する福島第1原発事故時の国会事故調のような第三者委員会を立ち上げて検証作業を進めてほしい。22日の総務省の〃最終調査〃と称する文書を読んだが、総務省のこの問題の関係官僚を中心としたたった8ページの「言い放し、聞き放し」のアバウトな一方的なヒアリング結果のみで、メールのやりとりなど詳しい周辺調査をした形跡はみられない。第三者調査でさらに深度を深めてもらいたい。岸田文雄政権はおそらく、この調査に応じようとしないだろうが、調査ができるかどうかは、日本の民主主義や表現の自由にとってまさに正念場であることをあらためて政権はキモに命じるべきである。
報道のランキング71位が象徴する事態
また、政府は立憲民主党の要求を拒否しているが、16年2月のこの問題に関する「政治的公平の解釈について(政府統一見解)」は公表された総務省文書が示すように憲法問題に触れる重要な案件も関わらず、審議会に諮られたり、国会で審議があったわけでもなく非常に手続き上もその内容もおかしな見解であり、政府がただちに撤回することは当然である。朝日新聞の24日付社説が、小西議員の参院外交防衛委員会での総務省審議官の「極端な番組の場合でも一つの番組ではなく、番組全体を見て判断する」との答弁を基に、「総務省は、いわば上書き修正する形で、(15年の)高市答弁を事実上撤回したのではないか」と指摘した。しかし、総務相や首相の答弁ではなく、審議官答弁なので即断するのは早いのではないか、と筆者は考えている。
この点でも岸田政権はどこか他人事で認識が甘い。「表現の自由」については厳しい目を注ぐ欧米をはじめ世界が政権の対応を見ていることを忘れないでほしい。また、政府から独立した行政機関が放送の電波監理を行うこと(戦後数年は日本でも「電波監理委員会」という形で行われていた)は欧米では当たり前で、LGBTQの差別禁止法がないのは、G7では日本だけという状況はこの問題にも当てはまる。5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)を目前にして経団連会長の政権への苦言ではないが、いずれもとても恥ずかしいことではないか。「国境なき記者団」が発表する報道の自由度ランキングで対象の180カ国中、71位という日本の低位置はこのような事態を象徴している。
「政治的公平」はあくまでも「倫理規定」 原則は自主・自律
そもそも、放送法は1950年に成立した際に、戦前の「大本営発表」に象徴されるようにメディア(当時はラジオ)が戦争に協力したことを深く反省するためにできた。連合国軍総司令部(GHQ)が憲法に沿った民主的な放送ができるように法律作りを指示。政府が番組内容などに干渉しないようにするのがその立法趣旨である。放送法第1条では、その目的として「放送を公共の福祉に適合するよう規律し、その健全な発達を図ること」で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保する」としている。第3条では「放送番組は、法律の定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない」と「放送番組編集の自由」を定めている。今回問題とされたのは、第4条が一種の規制と取られかねない「番組編集準則」と呼ばれる条項でその1項2号に「政治的に公平であること」との規定である。
「政治的公平」という規定は、不明確でどのようにも解釈されやすい。政権は批判的で自分に不都合な番組や報道を敵対視する傾向がある。特に、第1次政権が悪意あるメディアの報道により短期間で崩壊したと思い込んだ節のある安倍氏にとっては、第2次政権以降にはその傾向は強まったと考える。だから安倍政権は従来、放送法の立法趣旨などから、一つ一つの個別の番組ではなく、その放送局のある期間の番組全体の内容で判断すると説明してきた解釈を変えたかった、ということではないか。
しかし、「政治的公平性」の規定は、研究者の間では放送局が違反したら罰則の対象となる「法規範」ではなく、あくまで「倫理規範」とする解釈が定説となっている。だから、「番組編集準則」は放送局が「自主・自律」的に守ることが原則で、番組や報道が人権を著しく侵すようなことをした場合は、局ごとに設けられる「番組審議会」や放送事業者で作る放送倫理・番組向上機構(BPO)が人権侵害や放送倫理違反を判断し、改善を促す仕組みになっている。
総務省「統一見解」の例示に「殊更に」を使ったわけ
ところが、2015年5月12日、高市総務相が国会で「放送法が規定する『政治的公平』に反しているかについて、放送事業者(放送局)の『番組全体』だけでなく、『極端な場合には、一つの番組のみ』でも判断できるとした答弁。また、翌16年2月8日、高市氏は国会で一つの番組でも放送法の『政治的公平』に反する場合には電波停止を命じる可能性に言及した。さらに、高市答弁を受ける形で総務省はその4日後の2月12日、従来の法解釈(番組全体で見る)の変更ではなく、「補充的に説明し、より明確にしたもの」と明記した内容の「統一見解」を発表している。
統一見解によると、政府としては、これまでの「政治的公平性」の解釈を変えたわけではない、とする。「番組全体を見て判断する」というこれまでの解釈に「極端な場合には、一つの番組でも政治的公平性に反する場合がある」ことを付け加え、これが、「補充的に説明し、より明確化した」という理屈だ。「極端な場合」とは①選挙期間中、またはそれに近接する期間において、殊更に、特定の候補者や候補予定者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合のように、選挙の公平性に明らかに支障を認められる場合②国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合のように、当該放送事業者の番組編集が不偏不党の立場から明らかに逸脱していると認められる場合ーの二つを例示する。
しかし、問題は例示にどうにでも解釈可能な「殊更に」というあいまいな言葉を使っていることである。このような例は放送ではほとんどあり得ない。よく役人は公文書に「・・・等」という言葉を使うが、これと同じ〃役人論法〃である。「殊更に」がどういう場合に適用されるのか、この説明では分かりにくいだけでなく、拡大解釈が可能である。やはり、その狙いは、政府に批判的な番組を作らせないという政権の強い意図を感じる。解釈を変えたことを示すことで、放送局の萎縮効果を狙ったものではないのか。高市氏が突然、自民議員の質問に答える形でなぜ解釈変更を打ち出したのか。総務省文書ではその段取りが詳しく書かれていた。このことに安倍氏は細かいことまで指示している。小西議員が公表した総務省文書でその経緯のあらましが判明した。この事実は重大である。
■放送法の目的は「言論統制」ではあり得ない
「放送法の目的は言論統制ではない」と言い切るのは、言論法を専門とする山田健太専修大学ジャーナリズム学科教授。日本ペンクラブの副会長でもある。山田氏がWEB「論座」に載せた「放送は誰のものか~公表された総務省文書が示した、官邸によるメディア規制の強い意志 放送全体だろうが個別番組だろうが『政治的公平』を政府が判断することは許されない」によると、山田氏は総務省文書のやりとりから見える三つの問題点を指摘する。
① 政権中枢にいる政治家が個別の番組に意見するすることへの抵抗感のなさだ。15年3月6日付の記録には、TBSサンデーモーニングを例に「けしからん番組は取り締まるスタンスを示す必要がある」との礒崎陽輔首相補佐官発言が記されている。個別の番組について、その内容が政治的に公平かどうかを政府が判断し、しかも事後的であったとしても、それを取り締まるということは、まさに憲法で禁止されている検閲にも相当する行為だ。なぜなら、紛れもない行政権による番組内容観点の表現規制であるからだ。しかも、このことを将来にわたって、強い萎縮効果を生むことは間違いない。
② 官邸が強硬かつ執拗に法解釈の変更を迫り実現する異常さだ。「ただじゃすまないぞ。首が飛ぶぞ」などと礒崎氏が官僚を恫喝する記載もある。
③ 官邸が国会を動かすことが当たり前になっていた感覚である。双方のやりとりの中で詳細な国会質疑応答案文の作成を繰り返し行っていたことも明らかになっている。大臣答弁書のⅠ字1句まで作成し、事実上、官邸が国会をコントロールしようとしていた。あるいは確定した文案と国会の大臣答弁が同一であることからも、実際にしていたことが分かる。
その上で山田氏は①放送も新聞と同様、憲法21条の下で、等しくその自由が保障されており、特別なメディアではない②放送の規律の目的が言論統制ではあり得ない③放送法上も国の在り方は限定的だーとしている。
安全保障と選挙制度が担当で放送行政には権限がないはずの一介の首相側近の補佐官が官僚にここまで口を出し、抵抗すれば恫喝する。国会ですらコントロールしようとする。権限が不確かな補佐官が長期政権を築くことになる安倍氏の意向を徳川将軍家の印籠のように使って、脅し、すかし、なだめて支配する。官邸支配と民主主義がやり方によっては相容れないものだということが理解できるというのが、山田氏の指摘だ。ここまでくると、安倍政権のやったことは、どこやらの権威主義国と似ている。
(続)