安全保障や憲法改正などの問題で論調が大きく異なる東京新聞と産経新聞だが、元校長ら教員によるわいせつ裁判傍聴で、横浜市教委が職員を動員して一般傍聴を妨害したととられかねない問題をめぐって両氏が紙面で互いにたたえあった。インターネットの進出により、かつてより大幅に部数を減らし、メディアとしての生き残りを模索するオールドメディアの代表格の新聞。その紙面で「足で稼ぐ取材」というジャーナリズムの基本中の基本問題では一致した。
コロナをきっかけに、質問は1社1問に限定され、記者が分からない部分をさらに質問する「さら問い」を禁止され、問題の核心に迫る質問もできない(しようとしない)「首相記者会見」などで、市民からはその在り方を厳しく問われる新聞やテレビの既成メディア。政権や議員、地方自治体の首長、官僚、企業など「力を持つ組織」に対して、「ジャーナリズムとは何か」の原点にかえって、市民目線で権力の不正を監視するためにも、こういう共闘はマスメディアOBとして共感できる。記者にはいま、あらためて真実に迫るためには、「足で稼ぐ取材」が求められているとも言える。
憲法の「裁判公開原則」を損なう愚拳
問題が起きたのは、横浜市教委。東京、産経、朝日新聞の報道によると、元校長を含む教員による児童生徒へのわいせつ事件の刑事裁判をめぐり、市教委は5月21日に記者会見を開き、多数の職員を動員して裁判を傍聴させていたことを明らかにした。動員は19年5月に始まり、同年度と23~24年度に横浜地裁で審理された4件の裁判が対象で、計11回の公判で職員に傍聴を呼びかけた。当時の教育長はこのことを了承していたという。被告の教員が働いていた学校を所管する学校教育事務所の所長が業務命令として文書で発信。所管外の事務所や市教委事務局の職員らが動員されることもあり、23~24年度には延べ約500人の職員が呼びかけに応じ、出張旅費を支給していたケースもあったという。
市教委側は「不特定多数の傍聴者から被害者のプライバシーを保護するためだった」と弁明し「被告の教員側を保護しようとの意図は全くない」と説明している。ただ、その行きすぎを認めて陳謝した。各裁判で事前に傍聴席の数を把握し、1回当たり最大50人に呼びかけていた。「関係者が集団で傍聴に行ったことが分からないように、裁判所前の待ち合わせは避けてください」などとの注意事項を記していたことなども判明している。さすがに、市教委側もまずいという認識はあったと思われる。東京地裁などは、傍聴者が多い場合はくじ引きだが、横浜地裁は多くの傍聴が先着順で決まるという。
市教委側がどのような弁明をしようとも、市教委の指示で多数の職員が動員され、結果として一般の人々が傍聴できなくなったことは、憲法82条が規定する裁判の公開の原則や国民の知る権利を損なう「愚挙」(東京新聞社説)であり、「何より教育行政に対する信頼を大きく揺るがせた」(産経新聞社説)ことは間違いない。
きっかけは東京新聞記者の素朴な疑問
この問題が明らかになったきっかけは、東京新聞・森田真奈子記者の「著名な裁判でもないのに、なぜこんなに多くの人が法廷前にいるのか」との素朴な疑問だった。5月22日付東京新聞朝刊の社会面に載った森田記者の署名サイド記事「開廷前、異様な光景・・・スーツの60人長い列」は以下のように書く。
ことし4月下旬、強制わいせつの罪に問われた神奈川県内公立小の元校長の裁判で、この日は検察側の論告求刑が予定されており、森田記者が取材しようと法廷に向かうと、入口にはスーツ姿の男女60人ほどの長い列ができていた。傍聴席は48席しかなく、森田記者は法廷に入れず、取材を断念するしかなかった。(筆者の経験では、司法記者クラブ加盟の各社1人の記者席枠は別にあったとみられるが、記者2人以上が法廷内で取材することもある)。3月の同じ裁判の公判でも傍聴席はスーツ姿の人で埋め尽くされていた。公判後、外でスーツ姿の女性を取材したが「誘われたので」などと短い返事が繰り返された。
記者が傍聴人の後を追い突き止める
「市教委は組織ぐるみで傍聴を妨げているのでは」ということが頭に浮かんだ。手がかりがないので、(確認のため)4月の公判の後、傍聴人の1人の後を追った。地下鉄を使い、傍聴人が横浜市南部学校教育事務所の入居する事務所に入っていったのを確認。この傍聴人が市教委職員であることを確かめ、すぐに市教委に対して、地裁への職員の出張記録や具体的な指示が分かる文書を求めた。5月15日に市教委から「期間内の開示決定は困難」との延長の連絡がきたという。
25日付の神奈川新聞朝刊によると、神奈川新聞の記者も同じ裁判の公判で「3~4月に長蛇の列を確認、異様に感じた」と書いているので、「何か様子が変だ」と感じていた取材記者は他にもいたとみられる。ただ、傍聴人を追跡し、市教委に関係文書の開示を求めたのは森田記者だった。市教委の発表記事を書く同社の神谷円香記者もいるので2人の共同取材だったのだろう。
こう書いた後に、ソーシャル・ネットワク・サービス(SNS)上で時間をかけて調査した独自の記事や調査報道などを発信する「スローニュース」が5月30日、共同通信横浜支局の團奏帆(だん・かなほ)記者が、市教委の発表前に記事を流していたことが判明した、との記事をアップした。團記者によると、事前に情報をつかみ、森田記者と同じ日の閉廷後に他の記者に傍聴人尾行を依頼し、同じ事務所に入るのを確認し、市教委に質問状を送っていた、という。
團記者によると、事前に情報をつかみ、森田記者と同じ日の閉廷後に他の記者に傍聴人尾行を依頼し、同じ事務所に入るのを確認し、市教委に質問状を送っていたという。スローニュースは、「共同通信のスクープだった」とした上で、森田記者の取材がこれで色あせるものではなく、熱意と執念で取材した記者たちの〃見えざる連携〃というべき素晴らしいエピソードが背景にあった」と描いている。筆者の出身母体でもあるので付け加えておきたい。團記者はこのいきさつについて、共同通信のWEB版「47NEWS」の「47リポーターズ」に書き、近く掲載される予定。
「他社ながらファインプレー」「筆鋒の鋭さ見習いたい」
産経新聞は23日付朝刊のコラム「産経抄」で「この問題を大きく報じた東京新聞の記者は、傍聴人の1人を追い、市教委関連の職場に戻るのを突き止めたという。他社ながらファインプレーというほかはない」とたたえた。
この記事に対して、東京新聞は25日付朝刊のコラム「ぎろんの森」で「同じ日に社説を掲載したのは在京紙では産経新聞だけ。同紙の『主張(社説) 』は本紙の問題意識と重なり、筆鋒の鋭さは見習いたいと思いました」と産経社説の内容を高く評価。その上で「他社ながらファインプレーというほかはない」と産経新聞が書いたことについて「本紙とは政治問題で見解を異にすることの多い産経新聞ですが、会社や立場の違いを超えて、記者の奮闘に声援を送る姿勢には敬意を表します。同じ言論機関として切磋琢磨する大切さをあらためて感じています」と応じた。
「身内をかばう」市教委の振る舞い
横浜市教委は謝罪し、「弁護士を交えて問題点を整理する」との意向を示している(東京新聞25日付朝刊)というが、職員の法廷への大量動員が「被害者保護」だけにあったとは思えない。24日に今回、市教委による傍聴妨害が問題となった元校長に対する判決公判が横浜地裁で開かれ、執行猶予付きの有罪が言い渡された。
25日付の東京新聞朝刊によると、判決では、犯行場所や自治体名に言及せず、被害者についても名前などの人物の特定につながる情報は完全に伏せられた。ロビーに張り出された開廷表でも、被告人の氏名欄を空白にする徹底ぶりだったという。裁判所は個人情報の秘匿を徹底していた。だから、市教委の振る舞いは、「身内をかばうためだった」と疑われても仕方がない面もある。
ただし、27日の市教委会見では、市教委が「職員動員のきっかけになった」と主張する被害児童・生徒からの要請文書は、19年4月付で支援団体から受け取り、これが動員のきっかけになったことの確認が取れたとしている。この事実も書いておかなければ、公平とはいえないだろう。それでも、職員動員が正しかったのかという疑問は残る。
大きかったメディアの問題提起
28日付の東京新聞朝刊の続報によると、市教委はこの問題で、外部の弁護士3人のチームで検証すると発表した。チームは①組織的な動員に至った経緯や憲法の「裁判の公開原則」などに照らした法的な課題②公判傍聴のための出張を公務と位置づけることの可否ーなどを中心に検証し、過去5年間の出張命令書を総点検し、同じような事例がなかったかも確認するという。
市教委は当初、関係職員らの聞き取りという内部調査でお茶を濁す方向だったという。それが、第三者の客観的な視点を取り入れた第三者調査に変更させたのは、やはりマスメディアの問題提起が大きかったのではないか。マスメディアの「足で稼いだ取材」が市教委を動かしたともいえる。
政府や捜査当局などの取材規制に強く対抗を
結局、市教委の発表という形になったが、市教委を追い込み、発表という形で公にさせたという意味で、東京新聞や共同通信の粘り強い取材は「足で稼いで、真実を白日の下にさらした」という本来の意味での特ダネといっていい。いずれは明らかになる発表文を事前に入手して報道することに取材の主力を注ぎ、それを「特ダネ」と称するように見えるマスメディアの報道姿勢について、筆者は一定の意味があることは否定しないが、やはりあらためるべきではないかと考えている。ふだんはその主張が対立することもあるメディアが取材手法でエールを交換することができるのだから、記者会見の在り方などで一致して政府や捜査当局などによる〃取材規制〃に強く対抗してほしいものである。
(了)