<戦後80年>「戦争責任」に突き動かされ サラリーマン課長から政界と労働界へ 成田知己社会党委員長と太田薫総評議長 

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 80回目の終戦記念日を迎える8月15日。戦後の日本の政治と労働運動で大きな役割を担ったのが、社会党委員長の成田知己と総評議長の太田薫だった。二人は、それぞれ大手民間企業のサラリーマン課長からの転出組だった。終戦直後の混乱期とはいえ、サラリーマンからこの世界に飛び込むよう突き動かしたものは何だったのか。古い取材メモをたどると、成田、太田両氏に相通じるものは「戦争責任」だったように思われる。

GHQの民主化路線で戦争責任追及の動き

 1945年8月15日、昭和天皇の玉音放送で、国民は第二次世界大戦での日本の敗北を知った。それまで軍部から勝ち戦だとの大本営発表だけを知らされ、勝利を確信してきた国民は虚脱状態になった。敗戦直後で生活に必要な物資はすべて欠乏し、国民の多くが飢える寸前だった。

  敗戦は新しい日本の出発でもあった。人々は少し落ち着くと、仕事を求めて活動をはじめた。また多くの職場で、「戦争責任」を追及する動きも始まった。第二次世界大戦後の日本を占領統治した連合国軍最高司令部(GHQ)の民主化路線が、こうした動きを活発化させたとされる。

公職追放の中政治・労働運動の舞台に登場                 

 GHQの占領政策で、一番恐れられたのは公職追放だった。条件別にA項からG項まであり、その後さらに「軍国主義者極端な国家主義者が加わり、責任を問う範囲が広がった。吉田茂首相が個人的活用したY項まであったとされる。公職追放された政治家、軍人、公務員、軍需産業の幹部などは21万人に上った。

 公職追放されると公職はもとより民間の職にもつけない。退職金も恩給も停止されるので、軍需産業の幹部たちは気が気ではなかった。1955年に日本社会党が結成され、同じ年に自由民主党も発足。成田、太田両氏が政治・労働運動の舞台に登場した時代はこうした状況にあった。

敗戦で態度豹変に「気持ち高じ」政界へ

 成田氏の三井化学は、三井財閥系の軍需会社の中心的存在で、文書課長だった成田氏の部屋は社長室の隣で、文書課長を通さないと社長に会えなかった。だから毎日、地方の工場長などが成田氏を訪ねた。大半が社歴から軍事関係は削ってくれというものだったという。成田氏は来る日も来る日も応対しながら、この間まで「鬼畜米英」とか「撃ちてし止まん」と叫んでいた幹部が敗戦になった途端に、「今までのことは忘れたかのように豹変する態度を見て許せないという気持ちが高じた」といっている。

 そして政治家になって世の中を変えて行くしかないと思いつく。成田氏は、社長宛に三井財閥の戦争責任を明らかにすべきだとの意見書を提出して辞職。その足で県庁の記者クラブに出向いて、三井化学を辞めて出馬すると記者会見をして退路を断った。

 この時の選挙には敗れたが、2回目から12回連続当選。石橋政嗣書記長とコンビを組み、革新自治体を増やした。社会党の課題に「日常活動の不足・議員党的体質・労組依存」(成田三原則)の克服を掲げた。

真骨頂の「太田ラッパ」

 日本の労働運動を牽引した太田氏が出身の宇部興産(旧宇部窒素)も日本を代表する軍需会社だ。先端技術職として嘱望された太田氏は1939年、窒素工場企画課長から宇部労組組合長に選ばれた。技術部門の課長が創立間もない組合長に選ばれるのも異例だった。

 太田氏は記者の自宅の夜回り取材で、談論風発が好きだった。労働運動の将来や、欧米諸国の運動などとの比較論もあった。「日本の労組は企業別だが、ヨーロッパのように産業別の組織にならないと、大きな広がりができない。それにはまず戦うパワーだ」と言った。人々を元気づける単語がポンポン出てくるところが太田節の真骨頂で、「太田ラッパ」と呼ばれた。

「義を見てせざるは」

  太田氏が課長から宇部労組の委員長になった経緯はちょっとしたきっかけだ。その頃になると、宇部労組でも戦争責任を問う声が出ている。この社員総会で太田氏は「アジアの国々に相談なしに、勝手に兵を出したのだから、痛みは感じないといけない」と述べている。ところがこの演説が受けたらしい。「ラッパのように響く声で労働者を鼓舞できるのはお前しかいない」と組合長に推された。逃げきれなくなって、一年だけという約束で引き受けたが、やめられなくなり居ついてしまった」と頭をかいた。

戦争責任追及で「自らの責任考えるべき」

 太田氏は機嫌がいいと「義を見てせざるは勇無きなり」という論語の一句を口にした。労働者が追い詰められ生活が苦しくなり、格差も出ているのを座視できないという性格だった。先の戦争で日本人の戦死者は310万人、国連によると、日本軍の行動などによるアジア人の犠牲者は2000万人ともいわれる。戦争責任の追及はGHQだけに任せないで、ドイツのように自分たちも自らの責任を考えなければいけないとよく言っていた。

                             (了)