朝廷から崇敬された渡来の神
宇佐神宮(大分県宇佐市)は、広大な原生林の中にいくつも池が広がり、目に染みるような緑の中に朱塗りの本殿が浮かぶ。早くから神仏習合が進み、八幡大菩薩とも呼ばれる武家の守護神である。
道路地図を広げるとどのページにも八幡神社があり、全国的に広がっていることが分かる。ただ古事記(712年)、日本書紀(720年)には登場しないことから、この時はまだ一地方神だったようだ。社伝などによると、571(欽明天皇32)年、宇佐に八幡神が顕れ、社殿をつくったという。祭神は八幡大神、比売大神(宗像三女神・多岐津姫命、市杵島姫命,多紀理姫命)、神功皇后だ。
「宇佐八幡は元来韓国の神」
ただ成立の過程を見ていくとなかなか複雑で謎も多い。まず八幡の名前の由来だが、地名、仏教説話、幡に由来する説などがあって、どれとも決めにくい。
八幡神社は渡来の民、秦族が信仰していたといわれる。手掛かりを求めて研究書を見ると、神話学の三品彰英氏は、「対馬の天童伝説」で「八幡は多くの旗を立てた祭祀様式に名づけられた」とする。また田村円澄氏は、「宇佐八幡」で、1313年に選修された「宇佐八幡託宣集」に「辛国ノ城ニ始メテ八流ノ幡ヲ天降シテ、吾ハ日本ノ神トナレリ」と宣言があることから「日本の神となる以前の八幡は、日本の神でなかったことになる。ではどこの国の神であったか」となると、「辛国は韓国であり、宇佐八幡は元来韓国の神であった」とする。
渡来集団の秦族も八幡神社信仰か
「豊前国風土記」の「逸文」にも、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住めり」とあり、渡来をうかがわせる。大きな渡来集団である秦族も八幡神社を信仰していたとされる。この時代はまだ国の意識も薄く、もちろんパスポートなども必要ないから、人々は自由に半島と列島を行き来していたのだろう。
宇佐八幡の成立の経緯は、往古、宇佐地方に住んだ渡来系の辛嶋氏に八幡信仰があり、そこに大神氏が大和から応神天皇と神功皇后の伝承を持ち込み、宇佐土着の豪族の宇佐氏の本拠地の御許山の信仰の三つが重なって、宇佐八幡宮が形作られたようだ。
反乱の隼人の霊慰める宇佐八幡の放生会
宇佐八幡の放生会も有名で、720年、鹿児島、宮崎の隼人が大反乱を起こす。この時、万葉集の歌人でもある大伴旅人が「征隼人持節大将軍」となり、反乱鎮圧の指揮を執った。この際、八幡神も「我(われ)征(ゆ)きて降(くだ)し伏(おろ)すべし」と宣言して隼人征討に赴き、多くの隼人を殺したという。
放生会は殺された隼人の霊を慰めるために始まった。宇佐八幡は、政治の節目にする託宣で朝廷の崇敬を高めて行くが、神宮の成立にかかわった辛嶋、大神、宇佐の3氏の神宮をめぐる主導権争いや朝廷内の勢力争いなどにも巻き込まれることも少なくなかったようだ。