「戦後75年」「東京裁判」とは何だったかを考える  第4回 アジア・太平洋の49の法廷で裁かれたBC級戦犯

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 今からもうすでに4年半以上前になる。上皇ご夫妻は天皇と皇后時代の2016年(平成28年)1月26日から30日にかけてアジア太平洋戦争の激戦地、フィリピンを訪問した。皇太子時代以来54年ぶりの訪問だった。

 フィリピンでは、中国を別にすると、アジア太平洋戦争最大の激戦地。1942年(昭和17年)1月2日に日本軍が首都マニラを占領して以来、日本軍によるフィリピン統治が始まった。

 44年10月20日に米軍がレイテ島に上陸し、レイテ沖海戦で戦艦武蔵が撃沈され、日本の連合艦隊は事実上、壊滅した。最初の「神風特攻隊」の特攻機が米空母に突っ込んだのもレイテ戦だった。日本軍占領当初の「バターン死の行進」では、多数の米国やフィリピンの捕虜が死亡した。

 フィリピンでの日本人の戦没者約52万人、その半数以上が病死か餓死だったといわれる。人肉を食べた事件は大岡昇平の小説「野火」で知られる。まだ37万柱もの遺骨がフィリピンで眠っている。そして何よりも忘れてはならないことは、戦争に巻き込まれたフィリピンの人々111万人が死んでいることである。

 当時のフィリピンの人口は1800万人だったから、16人に1人が死んでいることになる。日本の当時の人口は7200万人、死者は310万人だから、フィリピンの方が死亡率が高いのである。

マニラ市街戦で市民10万人死亡 日本兵による虐殺も

 特に戦争末期の45年2月から3月まで、日本軍と米軍のマニラで市街戦があり、約1カ月間で10万人もの市民が命を落としている。日米両軍の砲撃で亡くなった人もいるが、米軍に協力したなどとして多数の市民が日本軍により虐殺された事実もある。1937年の中国の「南京虐殺」と同様の残虐な行為があった事実は日本では、あまり知られていない。上皇ご夫妻の訪問を機に日本でも、この問題が再認識されたといえる。

 上皇は訪問に先立って、フィリピンの一般市民の被害に言及。「多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては、膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き、この度の訪問を果たして行きたいと思っております」と述べている。

 上皇に対する日本国民の思いは昭和天皇の「戦争責任」の問題も絡みさまざまである。しかし、陛下が「無辜の市民」と言う言葉や大統領主催の晩餐会で語った「私ども日本人が決して忘れてはならないこと」という言葉はやはり重い。フィリピンでも、日本軍によって市民に対する加害行為があったことを我々は忘れてはならない。

妻子殺害された比大統領が108人に恩赦

 永井均の「フィリピンBC級戦犯裁判」(講談社選書メチエ)によると、45年10月上旬から47年4月中旬まで米軍による「マニラ裁判」が行われ、BC級戦犯として215人が裁かれた。46年7月にフィリピンは米国から独立し、米軍裁判を引き継ぐ形でフィリピンによる裁判が47年8月から始められ、49年12月まで約2年半続いた。

 フィリピンの軍事法廷で審理されたのは計73件で、151人の被告が現地住民の殺害、虐待、強姦などのいわゆるBC級の「通常の戦争犯罪」で裁かれた。このうち79人に死刑判決がくだり、19人は刑が執行された。しかし、妻子4人が日本兵に虐殺されたにもかかわらず、53年、フィリピンのエルピディオ・キリノ大統領は「日本人に私から憎悪の念を受け継がせない」との声明を出して死刑囚を含む108人に恩赦を与え、帰国させた。

 上皇ご夫妻は、2016年1月28日、元大統領の孫娘と対面し「決して大統領がなさったことを忘れません」と述べた。天皇に憲法上「政治的権能」はないが、日本国民を代表してお礼を述べたことになる。

BC級戦犯裁判の多くは非公開 

 フィリピンによる「BC級裁判」はアジア太平洋地域で行われた戦犯裁判の一例にすぎない。BC級戦犯容疑者の逮捕は降伏調印が行われた1945年(昭和20年)9月から始まり、50年まで続いた。「平和に対する罪」に問われたA級戦犯以外の「通例の戦争犯罪」による日本軍の将兵を裁いた「BC級戦犯」は米国、英国、オーストラリア、オランダ、フランス、中華民国、フィリピンの戦勝7カ国が主宰し、アジア・太平洋の49の軍事法廷で裁かれ、約5700人が起訴された。田中宏巳の「BC級戦犯」(ちくま新書)によると、それ以外にもソ連や中国共産党政府が行った裁判があった。正確な統計がないため、推測だが、、ソ連で約3000人、中国共産党政府が約3500人に達するとみられるとしている。「東京裁判」はA級戦犯を裁いたが、BC級戦犯については、住民や捕虜虐待などで、軍の司令官ら将校はもちろんのこと、兵隊や捕虜の監視に当たった当時植民地だった朝鮮半島や台湾の軍属の戦争責任までが厳しく問われた。BC級裁判はほとんどが非公開だった。

 BC級裁判の第1号は45年10月8日から米軍のマニラ法廷で始まったフィリピンの第14方面軍司令官、山下奉文陸軍大将の裁判。最後は51年⒋月9日に終結したオーストラリア軍のパプアニューギニアのマヌス島での裁判だった。

実際の死刑執行は920人、逮捕者は約2万5千人

 井上亮、半藤一利、保阪正康、泰郁彦の「『BC級裁判』を読む」にある法務大臣官房司法法制調査部の「戦争犯罪裁判概史要」によると、国内外で逮捕された容疑者は約2万5千人(5万人説もある)と推定される。

 繰り返しになるが、このうち、起訴されたのは約5700人、裁判件数は2244件、このうち死刑が984人、終身刑475人、有期刑が2944人、無罪1018人となっている。裁判地も各地に分散し,記録も日本に引き渡されなかったことから資料も散逸し,データにも資料によって違いがあるという。死刑判決を受けた被告も927人、934人、937人と諸説あり、実際に執行されたのは920人、獄死者91人とされている。

朝鮮人や台湾人も戦犯に、朝鮮人23人、台湾人21人が死刑

  内海愛子の「朝鮮人BC級戦犯の記録」(岩波現代文庫)によると、BC級戦犯を裁いた各国の法廷で裁かれた朝鮮人は148人、台湾人が173人で、このうち、朝鮮人は23人、台湾人は21人が死刑となっている。

 朝鮮人戦犯148人のうち、職業軍人はフィリピンの捕虜収容所長だった洪思翊(ホン・サイク)中将(死刑)とフィリピン山中でゲリラ戦を戦った有期刑の伍長の2人だけである。残る146人のうち、中国大陸で通訳として徴用されていた16人と警察官1人を除くと129人全員が捕虜収容所の監視員として集められた軍属だった。監視員として集められた朝鮮人は3224人。このうち南方に送られたのは3016人で、その中から129人が戦犯となっている。

 日本軍の中では「軍属」という最下級の地位でも、捕虜に命令を与え実行するのが監視員の仕事だった。暴力もあった。捕虜を虐待したこともあった。直接、捕虜と接するので,捕虜からうらまれることも多かったに違いない。

 主なBC級戦犯裁判(井上亮「『BC級裁判』を読む」による)は、中国での「南京虐殺事件」、フィリピンの「バターン死の行進」、シンガポールで裁判が行われた「泰緬鉄道捕虜虐待事件」や「華僑虐殺事件」などが知られている。

 このほか、井上によると、インドネシアでのオランダ人女性25人を強制的に慰安婦にした「スマラン慰安所事件」、戦争末期、小笠原諸島の父島で日本の陸海軍守備隊が米軍機搭乗員を殺害し、遺体の肝臓などを食べた「父島人肉事件」、捕虜の生体解剖事件として有名な、九州大学医学部でのB29搭乗員捕虜8人を生体解剖して殺害した「九州大生体解剖事件」、B29による無差別爆撃は国際法違反として米兵38人を処刑した「東海軍司令部B29搭乗員処刑事件」(死刑となった東海軍管区司令官岡田資中将について、大岡昇平が「ながい旅」に書き「明日への遺言」という題で映画化さされた)などがある。

裁かれなかった731部隊

 一方で、GHQの都合で東京裁判で裁かれなかったのが、関東軍防疫給水部731部隊による各種の人体実験だ。中国人やロシア人ら犠牲者は3千人以上ともいわれている。731部隊は石井四郎軍医中将の発案で誕生し、細菌兵器開発のため、「マルタ」と呼ばれた中国人らにペスト、コレラ、チフスなどのあらゆる細菌が使われた。石井中将ら部隊関係者は研究データを提供する見返りに戦犯を免責する取引をGHQとしていたとされる。戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判では731部隊関係者に訴追が行われ、判決で山田乙三元関東軍司令官ら12被告に強制労働が命じられた。

戦犯第1号はマレーの虎といわれた山下奉文大将

 「戦犯第1号」は第14方面軍司令官の山下奉文陸軍大将だった。45年2月、フィリピンのマニラでの市街戦で絶望的な米軍との戦闘を強いられた日本軍が米軍への協力者やゲリラの掃討のため多くの市民を殺した。当時、市内にいた市民約70万人のうち、約10万人が犠牲になったと言われている。45年10月8日から米軍マニラ裁判で裁かれ、死刑判決を受けた。46年2月23日、絞首刑に処せられた。

「バターン死の行進」で責任を問われた本間雅晴中将

 41年12月23日、フィリピン・ルソン島に上陸した第14方面軍はマッカーサー率いる米比軍をバターン半島とコレヒドール要塞に追い詰め、42年⒋月11日、半島を占領した。マッカーサーはオーストラリアへ脱出。降伏した捕虜は約7万数千人で、一般住民を含め約10万にも脹れ上がった。

 大半の捕虜は半島先端のマリベレスからオドンネル捕虜収容所までの60キロ以上の徒歩を強いられた。捕虜たちは降伏した時点で激しく疲弊しており、食糧も不十分だった。行進中に約1万人の捕虜が疫病や飢え、処刑などで死亡(米軍は約600人、あとはフィリピン兵。収容所で死亡した者を含めると死者は3万人近くになった。

 米国はこれを「死の行進」として裁き、第14方面軍司令官の本間雅晴中将が46年2月11日に米軍マニラ裁判で死刑を言い渡され、⒋月3日に絞首刑が執行された。

映画「戦場にかける橋」で知られる泰緬鉄道の捕虜虐待

 42年6月、大本営は南方軍にタイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415㌔の鉄道建設を命令した。建設工事は42年11月から始まり、43年10月に完成した。建設のために、英軍、オーストラリア軍などの捕虜約6万5千人とアジア人の労働者約20万人が動員された。工事期間中、栄養失調による脚気や、コレラ、赤痢、マラリアなどの疫病で捕虜約1万5千人が死亡、アジア人労働者も約7万4千人が死亡したとされる。

 シンガポールで行われた英国、オーストラリア合同の裁判で有罪は111人、このうち死刑は32人だった。映画「戦場にかける橋」やテーマ音楽「クワイ河マーチ」で世界中に知られている。関連24件の裁判のうち、「F軍団事件」と呼ばれる事件では捕虜7千人のうち、3千人が死亡したとされ、朝鮮人の監視員2人を含む7人が起訴された。しかし、被告はいずれも死刑にはならなかった。

既に比の事件で処刑されていた華僑虐殺の最高責任者の山下

 41年12月8日、日本軍はハワイ攻撃より先に、マレー半島のコタバルに上陸。山下奉文大将率いる第25軍はマレー半島を縦断しシンガポールを目指して進軍し、42年2月15日、パーシバル将軍率いる英軍は降伏した。捕虜は10万人にも及んだ。

 悲劇は戦闘が終わったあとに始まった。山下司令官は第9旅団長の河村参郎少将をシンガポール警備司令官に任命して、治安維持のために「抗日華僑」の一掃を命じた。この過程で多数の華僑が虐殺された。2千人から5千人説まであり、シンガポールでは「4~5万人」とする説もある。

 47年3月10日、英軍シンガポール法廷で裁判が始まり、西村琢磨近衛師団長、河村少将、憲兵隊の大石正幸中佐ら7人が起訴された。この虐殺の最高責任者の山下は裁判が始まったときはすでにフィリピンでの別の事件で処刑された後だった。

 粛清命令者である山下が不在であり、「真の首謀者」といわれた辻政信中佐ら参謀も訴追を逃れた。結局、河村と大石が絞首刑、他は終身刑だった。

知られざるマヌス島裁判で処刑された西村琢磨中将

 BC級裁判で最後の死刑囚は、近衛師団長としてシンガポール攻略などの指揮を執った西村琢磨中将。朝鮮戦争が始まり約1年が過ぎた1951年6月、ニューギニア島北方のマヌス島で処刑された。 マヌス島の戦犯法廷は豪政府が設けたが、一般的にはあまり知られていない。処刑されたのは5人。西村は捕虜虐殺を命じたとの罪を問われた。
 
 教戒師が残した記録によると、死刑判決の根拠となった豪兵の目撃証言はあいまいで矛盾に満ちていた。日本軍関係者の供述調書は西村に罪をなすりつけるものが多かったが、反対尋問は一切なかった。それでも西村は弁明せず、「すべては私が背負って死んでいく。他の被告の刑が軽くなればそれでいい」と死刑に立ち会った教戒師に語った。

 豪ジャーナリストは裁判記録をもとに96年に本を出版。「マレーの虎と称された山下奉文大将を米国がフィリピンで処刑したので、国民感情を納得させるためにもう一匹の虎として西村中将が狙われた。政治的な処刑で誤審だった」と主張していた。(朝日新聞デジタル)

「仲間の無念晴らす」と訴え続ける朝鮮出身元戦犯

 在日韓国人の李鶴来(イ・ハンネ)さん、現在95歳。BC級戦犯となった朝鮮人148人の最後の生存者だ。私はこの李さんを40年ぐらい前に取材をしたことがある。在日韓国人の元戦犯仲間と都内でタクシー会社を経営。その一方で「仲間の無念を晴らす」として日本政府に補償や謝罪を求めてきた。それからもうかなりの時間がたってしまった。この後も、李さんは8月15日の「終戦の日」が近づくと、新聞やテレビのニュースに時々、登場。補償を訴え続けてきた。訴訟も起こした。65年の「日韓請求権協定」が壁になり最高裁まで争ったが、敗訴。その後も、補償と政府の謝罪を求め戦いを続けてきた信念の人である。

 李さんは韓国の全羅南道生まれ。1942年、17歳のときに、知人の勧めで日本軍の捕虜監視員に応募した。43年に、タイとビルマ(現在のミャンマー)をつなぐ泰緬鉄道建設に動員された英国やオーストラリアの捕虜500人を監視する仕事に就いた。終戦後の47年、軍事裁判でBC級戦犯として死刑を言い渡された。しかし、上訴して20年の減刑となり、死刑を免れた。巣鴨プリズン収容中の55年に朝鮮半島出身の戦犯約70人とともに互助組織「同進会」を結成。日本政府に補償や謝罪を求めてきた。56年に出所。52年のサンフランシスコ講和条約の発効により日本人の元軍人・軍属には恩給が支給されるのに旧植民地出身者は日本国籍を奪われ、その対象外となった。「私が死刑から生き残ったのは、この問題に取り組むためだった」と語る李さん。さすがにもうあまり時間はない。(8月4日、ロイター通信、8月14日付東京新聞朝刊から)

 ここにも、本来は日本に責任があるはずなのに、「戦後補償」から置き去りにされた犠牲者がいる。李さんだけでなく、多数の朝鮮人・台湾人の捕虜監視員たちが「戦犯」に問われたが、あくまでも命令は日本軍が下したことを忘れてはならない。

理不尽な思い抱きながら処刑されたBC級戦犯の「無念さ」

 また、BC級戦犯として処刑された人の中には、虐待されたとする元捕虜側の思い込みによる証言や上官から捕虜の刺殺を強要されるなどで有罪にされた人々もいるとされる。例えば、少し古いテレビドラマだが、戦後の平和論争を揺るがした話題作「私は貝になりたい」の1958年オリジナル版。フランキー堺が主演の田舎の平凡な理髪店主人を演じた。太平洋戦争で上司の命令で捕虜を刺殺したためにBC級戦犯として処刑されるまでを描いた。その後、リメイク作品がテレビで放映されている。58年度芸術祭で芸術祭賞(放送部門)を受賞した。フランキー堺の迫真の演技が多くの視聴者の涙を誘い、絞首台の13階段を上り「私は貝になりたい」とつぶやくラストシーンでは日本中を感動の渦に巻き込んだ(TBSチャンネル)。モノクロ作品だったが、中学生だった私はこのドラマを見て「戦争は嫌だ」と何とも言えない気持ちになったことを今でも覚えている。

 本当は無実だったり、強制されやらざるを得なかったことなのに、理不尽な思いを抱きながら処刑された戦犯の「無念さ」に、戦後75年を機会に思いをはせたい。

(これで連載「『東京裁判』とは何だったかを考える」を終わります。5年前に文教大学情報学科の「文章演習」の授業で使った学生用のレジュメを元に大幅に加筆しました)

(注)本稿は永井均氏の「フィリピンBC級戦犯裁判」(講談社選書メチエ)、井上亮、半藤一利、保阪正康、秦郁彦氏の「『BC級裁判』を読む」(日経ビジネス人文庫)、内海愛子氏の「朝鮮人BC級戦犯の記録」(岩波現代文庫)、林博史氏の「BC級戦争犯罪」(岩波新書)、田中宏巳氏の「BC級戦犯」(ちくま新書)などを参考にしました。