「戦後75年」「東京裁判」とは何だったかを考える 第2回 起訴、開廷から結審まで 検察に全面協力した天皇の側近木戸幸一

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 検察側がA級戦犯を選定するに当たり日本側から2人の有力な協力者が現れた。1人は1945年(昭和20年)11月24日に内大臣府が廃止されるまで内大臣として昭和天皇側近ナンバー1の地位にあった木戸幸一である。木戸は西園寺公望元首相ら「元老」がいなくなったあと、首相選びなど重要な決定について、元首相らの「重臣」とともに、天皇に進言する立場にあった。

「木戸日記」を検察側は最大限活用

 木戸は、近衛文麿のあとに東條英機を首相に推薦した人物である。木戸にA級戦犯容疑者として逮捕命令が出たのは、近衛と同じ日の46年12月6日だった。木戸への検察局の尋問は12月21日からキーナン首席検事らにより始まった。
 
 木戸は30回を超す尋問を受けて、満州事変(1931年)から終戦までの様々な事件や軍部や政府、宮中の動向などについて詳しく供述した。そして木戸は30(昭和5)年からスガモプリズンに出頭するまでの間に書いた日記「木戸日記」を検察局に提出した。木戸日記や供述は昭和天皇に「戦争責任がない」とする内容で、もちろん自分自身の〃自己弁護〃も含まれていた。それにもかかわらず「検察側のその後の捜査と起訴状作成、さらには法廷での立証活動で、この日記が最大限に活用された」(粟屋憲太郎「東京裁判への道」=講談社学術文庫)という。

【満州事変】満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で1931年9月18日に起きた鉄道爆破事件に始まる日中両軍の軍事衝突。33年に停戦協定が結ばれたが、その後の日中戦争、太平洋戦争と続く十五年戦争の端緒に位置づけられている。(朝日新聞キーワード)。当時の関東軍の板垣征四郎高級参謀と石原莞爾作戦主任参謀の仕掛けた謀略だといわれている。

 木戸は「陸軍の中で戦争を望んでいたのは誰か」との検察局の尋問に、東條内閣当時の陸軍省軍務局長、武藤章中将やその後の軍務局長佐藤賢了中将、企画院総裁の鈴木貞一中将の名を上げていった。粟屋によると、「重大な政治責任があると言明あるいは示唆した人物のうち、結果として東京裁判の被告に選ばれたのは28人中15人に上るという。陸軍では、東條英機、南次郎、荒木貞夫、小磯国昭、板垣征四郎、橋本欣五郎、松井石根、鈴木貞一、武藤章、佐藤賢了の10人。結果として、このうち4人が死刑となった。海軍は永野修身、嶋田繁太郎、岡敬純の3人、それに松岡洋右元外相と右翼の大川周明の計15人であった。

「第二の協力者」田中少将 張作霖爆殺や満州事変の謀略暴露

 もう1人は陸軍の田中隆吉予備役少将だった。
 田中は第1次上海事変(32年)で主導的役割を果たし、中国での日本軍の数々の謀略に直接関与していた。さらに〃東洋のマタハリ〃と呼ばれた女装の麗人、川島芳子の愛人としても知られる。太平洋戦争開戦時には陸軍省兵務局長(憲兵のトップ)だったが、東條と対立し42年9月に予備役となっていた。

 田中は、張作霖爆殺事件や満州事変の発端となった柳条湖事件などでの関東軍の謀略の事実や概要を次々と証言し、橋本欣五郎の3月事件や10月事件、2・26事件などについての日本の軍部の暗部を暴いていった。粟屋によると、A級戦犯被告28人のうち田中の人物評が添付されているのは17人に上る。そして「その証言は被告の選定やその後の検察側の立証のために大いに活用された」という。公判が始まると田中は被告たちを名指しで批判する証言を行った。

ソ連の意向で重光外相、梅津大将を被告に追加

 46年3月11日から検察側は被告の選定作業に入った。
 日暮吉延の「東京裁判」(講談社現代新書)によると、その選定基準は①「平和に対する罪」(侵略の罪)で起訴できる者②各段階と各役職の代表者③確実に有罪の証拠のある者の3点。これに加えて④侵略の共謀に積極的に参加した者、または反対すべき時に反対しなかった者が実際に起訴された。

 検察局の執行委員会は多数決で被告を選定、可否同数の場合は提案した検事に決定権が与えられた。46年3月31日には東條ら7人がまず選ばれ、3月20日には不起訴にする者が確定した。4月4日、29名をいったん選んだが、満州事変の首謀者石原莞爾ら3人が外れ、26人に。さらに⒋月13日、ソ連の検事が来日し、ソ連の意向で重光葵元外相と梅津美次郎陸軍大将が追加されることになった。結局、28人の被告が確定した。

起訴状前文で日本を糾弾、「不作為の罪」も新たに追加

 起訴状は「昭和天皇誕生日」の46年4月29日に裁判所に提出された。
 起訴状は「対内対外政策は犯罪的軍閥により支配せられ、かつ指導せられたり。かかる政策は重大なる世界的紛議及び侵略戦争の原因たると共に,平和愛好諸国民の利益、ならびに日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり」とした日本を糾弾する前文と55項目の訴因からなっていた。ニュルンベルクは4項目だった。起点として28年の張作霖爆殺事件が選ばれ45年9月まで約17年にわたる長い期間が訴追の対象となった。

 「訴因」の55項目は三つに大別された。第1類が「平和に対する罪」(侵略の罪)、第2類が「殺人」、第3類が「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」という構成。第1~第3類までいずれも「共同謀議」の項目があった。第3類の訴因55には、ニュルンベルク裁判にはなかった「不作為(何も対応しなかった)の罪」が新たに加えられた。これは後に判決で南京事件で虐殺の責任を問われた元中支那派遣軍司令官松井石根陸軍大将に適用される。

入廷の際になぜかニヤッと笑った東條元首相

 46年5月3日、市ヶ谷台の陸軍省と参謀本部が置かれた昭和陸軍を象徴する旧陸軍省大講堂を改造してつくられた法廷で東京裁判は開廷した。午前10時半すぎには、まず日本人の弁護団が入廷した。判事席には扇型に裁く国の11旒の鮮やかな連合国の国旗が飾られてあった。

 11時すぎ、キーナン首席検事が多くの検事団を引き連れて入ってきた。2分遅れて、MPに誘導されつつ、被告たち(板垣征四郎、木村兵太郎の両被告はバンコクから送致途中)が入廷してきた。やがてオーストラリア代表のウェッブ裁判長以下の裁判官が黒いガウンの裾を払って入廷。判事11人中、インドのパル判事とフィリピンのハラニーリャ判事はまだ日本に来ていなかった。米国の判事も開廷時にはいなかった。(その後、交代した)。英国の木槌をもって判事席の下に立っていた法廷執行官が、大きな声を上げて開廷を宣言した。

 裁判の〃主役〃東條は入廷の際に「入口に入るとき、かすかながらニヤッと顔の表情を崩した。とっさにその意味は理解できなかった。それは『信念の東條』の不敵の表情とも受け取れたし、夢覚めて後の苦笑とも見えるものだった」とその時のもようを朝日新聞東京裁判記者団の「東京裁判」(朝日文庫)は書いている。

大川周明が東條英機を平手打ちのハプニング

 朝日新聞東京裁判記者団によると、ウェッブ裁判長が「今回起訴された被告は、過去十数年の間、指導的立場を占めていたものばかり。首相、外相、蔵相、参謀総長その他の日本政府の最高に地位にあった人が含まれている。起訴されている罪状は世界平和に対し、戦争法規に対し、人道に対し、あるいはこれらの罪を犯すべく陰謀したことに対する罪である。これらの罪はあまりにも多く、深い」などと「開廷の辞」を述べた。

 午後2時半に板垣、木村の両陸軍大将が拘留先のバンコクから到着、被告がそろった。検察側の起訴状朗読が始まった。この日はこれで法廷を終えたが、東條の後ろに座っていたパジャマ姿の右翼の大川周明被告が平手でぴしゃりと東條の頭をたたくというハプニングがあった。東條はその一瞬、後ろを振り向いて再びニヤリとした。

全被告が「無罪」主張、検察側は「文明の裁き」を強調

 翌5月4日は大川について「精神鑑定が必要」とする弁護側の申立が通り大川は退廷。この日はわずか1時間で終了した。第3回公判の6日は、起訴状に上げられた罪状の認否を問う英米法で「アラインメント(罪状認否)」が行われた。この日全被告が「無罪」を主張した。

 そして約1カ月後の6月4日、キーナンは検察側の4万字にも上る冒頭陳述を行い「この裁判は歴史上、文明の裁きである」との所信を明らかにした。「文明の裁き」と主張する検察側の根拠は保阪正康の「東京裁判の教訓」(朝日新書)によると、以下のようなものだった。

 「被告らは文明に対し宣戦を布告した。民主主義とその本質的基礎、すなわち人格の自由と尊重を破壊しようと決意し、この目的のためヒトラー一派と手を握った。そしてともに彼らは民主主義国家に対し、侵略戦争を計画し準備し開始した。被告らは進んで人間を動産および抵当物のように取り扱った。これは殺戮と幾百万の人々の征服および奴隷化を意味する。条約、協定および保障は彼らにとっては実に単なる言葉でしかなかったし、アジアひいては世界の支配と統制が彼らの共同謀議の主意であった。いまこの禍根を断たなければ、人類は平和という時期を失うだろう。将来の戦争を防止するために、被告たちの『文明への挑戦』は裁かれなければならない。こうした『文明への挑戦』を行った被告たちは、侵略的戦争への共同謀議という責任を負っている。そうした責任を『個人が国家の首謀者として犯した不法行為』として問うのは、人類史上初めてのことである。責任はまさに人間という機関にある」

満州国元皇帝・溥儀は責任逃れに終始

 検察側の立証はこの後①一般段階(国家組織・世論指導・暗殺等)②満州事変③日中戦争④日独伊3国同盟⑤仏印進駐⑥ソ連(ノモンハン事件、日ソ中立条約)⑦一般戦争準備段階(経済政策・軍事力拡大等)⑧太平洋戦争⑨残虐行為⑩個人別追加立証と進み、47年1月24日に検察側立証は終了した。

【ノモンハン事件】日本の傀儡(かいらい)国家だった旧満州国(現・中国東北部)と旧ソ連の影響下にあったモンゴル人民共和国(現モンゴル)の国境紛争。1939年5月11日に起きた小競り合いがエスカレートした。ソ連側が8月20日に大攻勢を開始し、日本側の退却で9月16日に停戦が成立。死傷者は日本側2万人、ソ連側2万6千人とされ、対米開戦に至る日本の「南進政策」の一因にもなった。紛争を拡大させた関東軍参謀の責任は事実上問われず、中心にいた参謀たちは、太平洋戦争では大本営作戦課の課長や参謀としてガダルカナル作戦やインパール作戦を指導した。(朝日新聞キーワード)

 46年8月16日には、注目の証人、満州国元皇帝の愛親覚羅溥儀(清朝最後の皇帝、宣統帝)が抑留中のソ連のハバロフスクから出廷した。キーナンの「あなたは日本側に抵抗する意思がありましたか」との質問に「私の本当の気持ちといたしましては拒絶したかったのではありますが、(関東軍の)顧問等が私に生命の危険があるから、是非応ぜよという勧めがありましたので、やむを得ずこれに屈服しました」と答えている。

 日暮吉延は「東京裁判」で、当初、日本人弁護団は溥儀に敬意を表して反対尋問をしない方針だったが、あまりにも責任転嫁がひどいので、反対尋問した。しかし、それでも責任逃れは変わらず、あきれたウェッブ裁判長が「これ以上は聞くことはない」と言い出すほどだったと書いている。

「戦争犯罪は交戦法違反のみ」との弁護側の主張却下される

 46年5月13日、清瀬一郎弁護団副団長がこの裁判所の管轄について異議申し立てをした。その理由は第1に、日本とドイツでは「降伏の仕方」が異なり,ポツダム宣言第10項の「戦争犯罪人の処罰」は日本と連合国を拘束するが、宣言発出の時点で知られていた犯罪は「交戦法違反」(通例の戦争犯罪)だけである。従って裁判所には「平和に対する罪」(侵略の罪)や「人道に対する罪」「殺人罪」を裁く権限がないと主張。

 さらに、ノモンハン事件、張鼓峰事件は、日ソ間の協定で解決済みとも主張した。しかし、この申立は第7回の46年5月17日の法廷でウェッブにより却下された。

【張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)】1938年(昭和13年)に起った日ソ両軍の衝突事件。日独防共協定の締結がソ連の対日硬化を招き,当時日ソ関係は悪化していたが,同年7月11日,ソ連は突然張鼓峰頂上を占拠し,陣地の構築を始めた。張鼓峰は満州,朝鮮,ソ連国境に近く,国境線も不明確な地点で,満ソ両国が自国の領土であると主張していた。(ブリタニカ国際百科事典)

7被告の弁護側主張と検察側反論

 被告側は47年1月27日から29日にかけて米国人弁護人が代わる代わる発言台に立ち、被告別の「公訴棄却動議」を出した。起訴自体が無効だから、起訴状から当該被告の部分を削除せよ、との動議である。

 元外相松岡洋右被告が46年6月に病死し、元海軍大将の永野修身被告も47年1月5日に病死したため、被告数は28人から26人に減っていた。日暮の「東京裁判」によると、後に「絞首刑」判決を受ける7被告の弁護側主張と検察側反論は・・・。

1,【土肥原賢二元陸軍大将】
弁護側=侵略戦争の共同謀議の時期には常に出先の軍におり「上官の命」に服していた。残虐行為への関与は立証されていない。
検察側=土肥原は奉天特務機関長時代、武力解決も辞さない人物と報道されていた。溥儀は土肥原を「柳条湖事件の陰にいて糸を引いていた」と証言した。東部軍司令官として俘虜収容所での虐待に直接の責任があり、シンガポールの第7方面軍司令官在任中にも「数千件の殺人及び不必要な死亡事件」があった。

2,【広田弘毅元首相】
弁護側=南京事件の責任を問われること自体が全く奇妙だ。第1次近衛内閣の外相を辞任したのは,中国にいる日本軍の行動について近衛首相と見解を異にしたためである。広田内閣の全期間中、日本は平和だった。広田が対米英戦争を「自存自衛」の戦いだと述べたこともない。広田を起訴したこと自体が「大いなる誤算」である。
検察側=外相・首相に在任中、列強向けの言辞は「協調的」なのに、実際の政策と結果は「協調的」ではなかった。広田内閣の時に決定された「国策の基準」は日本政府が初めて採用した侵略政策であり、広田は「最初から最後まで侵略者」だった。

3、【板垣征四郎元陸軍大将】
弁護側=満州事変時、上官の本庄繁関東軍司令官(45年11月、逮捕命令が出て自決)や軍中央の決定及び命令に従い行動した。広東や漢口の日本軍の「殺人時」に陸相だったと言うだけで刑事責任を問うには不十分である。シンガポールの第7方面軍司令官時の残虐行為も「検察側は何らかの責任を有する」と述べたにすぎない。
検察側=柳条湖事件の「最初の計画者の1人」であり、また太平洋戦争末期の第7方面軍司令官在任中には「俘虜に対する恐るべき暴虐行為」が起きた。

4,【木村兵太郎元陸軍大将】
弁護側=陸軍次官在任中の捕虜に関する権限は、陸相命令の通達を各軍司令官に通達することだけだ。44年、ビルマ方面軍司令官に着任したとき、すでに日本軍は敗走中だった。在任中に捕虜を管理した証拠もない。
検察側=陸軍優位の中で陸軍次官を務めており、「他の若干の省の大臣」以上の責任がある。泰緬鉄道建設で捕虜を使役することを決定し、連合国航空兵の死刑も命令した。

5,【松井石根元陸軍大将】
弁護側=日中戦争時、中支那派遣軍司令官として軍中央の命令で南京攻撃を遂行したにすぎない。作戦中は蘇州の司令部で勤務し、南京にいたのは短期間だけだ。南京の残虐行為について問責できるだけの証拠はない。
検察側=中支那派遣軍司令官として37年12月に中国の揚子江で起きた英国の砲艦レディバード号の砲撃について「命令」責任がある。南京事件は犠牲者「15万」以上ないし、「27万」以上だが、残虐行為の「多くは故意に命令されたはず」である。

【レディバード号事件禍】中支那派遣軍のうち6個師団(推定約20万)は南京を直接防御した中国軍約10万を包囲攻撃し,中国軍は37年12月12日退却に移り,13日南京は陥落した。このとき南京虐殺事件(南京大虐殺)や英米の艦船に攻撃を加えたパネー号・レディバード号事件等が起こり列国の非難をうけ,10月以来進めてきた駐中国ドイツ大使トラウトマンの和平工作も破れて,日中戦争はいよいよ泥沼化する。(コトバンク)

6,【武藤章元陸軍中将】
弁護側=軍歴のほとんどで「従属的地位」にあり、「上官の命令を実践に移すこと」が任務だった。捕虜関係の政策は陸軍省軍務局が決定したとする大量の証拠が出されたが、それらは歪曲されている。スマトラの近衛師団長在任中、捕虜は「正式の命令系統以外で取り扱われた」ので責任はない。
検察側=現地軍と陸軍省の双方で「あらゆる侵略に参加」した。またスマトラの近衛師団長、フィリピン・ルソン島の第14方面軍参謀長在任中には多数の残虐行為があった。

7,【東條英機元首相】
弁護側=共同謀議や残虐行為ほかの告発について、いずれも「法的証拠」が認められない。
検察側=「共同謀議の初期」に東アジア征服を計画した青年将校で、満州事変と日中戦争を通じて重要な地位を占め、41年の首相就任時に「共同謀議の事実上の指導者」となった。残虐行為の「直接責任」は十分に立証されている。

 これらの被告別の主張について、日暮は「淡々と立証の不成立を求めて自身の具体的事情に触れていない東條の動議が異彩を放つ。総じてみると、『共同謀議』の存在は立証されず,もしあったとしても、被告がそれに関わった証拠はないという論理では共通する。また、『職務の遂行』や『上位権力の命令』に責任否定の根拠を求める主張が多い」と分析している。

1審だけの裁判で被告に上訴認められず終了

 48年2月、検察側の最終論告があり、3月には弁護側が最終弁論し、同年⒋月16日に結審した。11月4日から正味7日間の判決文の朗読に入り、11月12日、起訴された28被告のうち、松岡と水野は病死し、大川は精神に異常をきたしたとして免訴となったため、25人の被告に判決が言い渡された。

 裁判開始以来2年半ぶりの判決言い渡しだった。1審だけの裁判で被告に上訴は認められておらず、この判決言い渡しで東京裁判は終了した。判決を含め公判は424回、証人は419人(検察側109人、弁護側310人、ほかに被告16人が証言した)。検察側立証は192日、弁護側反証は225日に及んだ。公判速記録は約5万ページに達した。

(注) 本稿は、保阪正康氏の「東京裁判の教訓」(朝日新書)、日暮吉延氏の「東京裁判」(講談社現代新書)、粟屋憲太郎氏の「東京裁判への道」(講談社学術文庫)、朝日新聞東京裁判記者団の「東京裁判」(朝日文庫)、平塚柾緒氏の「東京裁判の全貌」(河出書房新社)などを参考にした。