「戦後75年」「東京裁判」とは何だったかを考える 第1回 A級戦犯逮捕と天皇の戦争責任問題

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 35年前に西ドイツ(現ドイツ)のワイツゼッカー大統領は、日本よりも一足早くナチスが連合国に降伏した「1945年5月8日」を「ドイツ史の誤った流れの終点」とし、ナチスからの「解放の日」であると強調した。ドイツのシュタインマイヤー大統領は、ことし5月8日の終戦75周年記念式典で次のように演説し、この日を改めて「解放の日」であり「感謝の日」と位置づけた。(東京新聞8月12日付朝刊社説「『解放の日』へ決意込め)

 「私たちは(いま世界から)信頼を享受し、世界中の連携と強調の果実を得ています。解放の日は感謝の日である。私たちドイツ人は、いま、そう言えるのです。心の底からこうした確信が得られるまで、3世代の歳月がかかりました」(在日ドイツ大使館訳、全文はインターネットで)。

 シュタインマイヤー氏は社会民主党出身で、メルケル内閣で外相、副首相を務め、2017年2月、大統領に就任した。ドイツ連邦共和国の政治権力は首相にあり、大統領は国家元首ではあるが、象徴的存在だ。失礼ながら「ドイツの今の大統領は誰か」と尋ねられても答えられる人は少ないと思う。私は「解放の日」のことを教えてくれた8月12日付の東京新聞社説を読むまで知らなかった。大統領は現在、64歳。65歳の安倍晋三首相とほぼ同世代である。私は何もドイツが日本よりもすべていい、と言っているわけではない。また、ナチスによるユダヤ人らへの大量虐殺「ホロコースト」(犠牲者は600万人といわれる)と日中戦争時に起きた「南京事件」(東京裁判は犠牲者を20万以上とした。中国は30万人)に象徴される日本の「超国家主義」とは、問題が起きた事情や動機、背景、規模の大きさなどから見て、同じではないことも事実である。

日独で異なる「負の歴史」へのスタンス

 3月18日にメルケル首相が出したコロナ禍についての「重要演説」(「ウオッチドッグ21」の「『コロナ記者会見で見えてきたもの』少しも心に響かない首相の言葉」)でも指摘したが、ドイツのトップリーダーの演説はなぜ私たちの心に響くのか。それは、まず、第一に政治リーダーたちが自分の言葉で語っていること。そして、ドイツのリーダーがナチスのやった「負の歴史」に真っ正面から立ち向かい、過去を徹底的に自己批判して深く反省し、迷惑をかけた国や人々に何度も繰り返して率直に謝罪していることが、世界の人々から受け入れられているためだと思う。それは、ドイツがいまだに第2次大戦中のナチスの残虐行為に対し個人の刑事責任を追及する動きを続け、そのことを世論も後押ししていることでも示されている。一方、日本では、「8月15日」は戦争が終わった日であり、「戦没者慰霊の日」である。ドイツのように「解放の日」とは位置づけられてはいない。だからこの日は「感謝の日」でもない。このように、ドイツと日本の政府の「負の歴史」についてのスタンスはかなり異なる。

 日本もドイツも75年前に連合国から軍事的に徹底的にたたきのめされた。そして、両国とも戦争犯罪を裁く国際裁判、日本は「極東国際軍事裁判(以下「東京裁判」という)」で、ドイツは「ニュルンベルク裁判」でそれぞれ戦争の指導者たちが断罪された。東京裁判については、ドイツと異なり、現在の日本の政治指導者の中には、負の歴史を認めず、東京裁判を「勝者の裁き」だとしてこれを否定する人もいる。私とは意見を異にするが、このような歴史認識を持つこともそれなりの理由があることは認めたい。

首相、追悼式の式辞で「歴史と向き合う」との言葉を初めて削る

 かつて安倍晋三首相は、尊敬してやまない祖父の岸信介元首相が東條英機内閣の商工大臣としてA級戦犯に問われたこともあってか、「東京裁判」にこだわり続けた。第1次内閣の際には「A級戦犯について、国内法的には戦争犯罪人ではない」と明言した。13年3月にも「東京裁判は勝者の判断によって断罪された。その歴史に対する評価については専門家や歴史家に任せるべきだ」との見解を示している。いま安倍首相はこのような歴史認識についての発言を〃封印〃していると思っていた。ところが、ことしの8月15日の「全国戦没者追悼式」の首相式辞で、首相は第2次政権発足以降は毎年盛り込んでいた「歴史と向き合う」という趣旨の言葉を初めて削った。式辞には、第2次大戦をめぐるアジア諸国への加害責任や反省の言葉もなかった。その代わりに、外交や安全保障政策で政権がよく使い、その実質は平和とは反対方向にあるとも批判される「積極的平和主義」との文言を新たに付け加えた。そしていま、これまでの「専守防衛」を逸脱する「敵基地攻撃能力の保有」という、きな臭い論議が政権の手で進められている。

 東京裁判をめぐっては、「勝者の裁きだ」と裁判を否定する主張をする人たちと「文明の裁きだ」とこれを評価する人たちの間で、「平成」や「令和」の時代になっても対立が続く。戦後75年となる今、国民から忘れられつつある「東京裁判」とは日本人にとって何だったのか、を改めて考えて見たい。

ニュルンベルク裁判に比べ長期裁判に

 「東京裁判」は、1946年(昭和21年)5月3日に開廷し、約2年半後の48年11月12日に被告25人(当初は28人が起訴されたが、2人が途中で死去し、1人が免訴となった)に刑の宣告が下されて閉廷した。45年11月から始まった、ドイツのヘルマン・ゲーリングら24人の戦争指導者を裁いたニュルンベルク裁判にならって連合国が設置した。ニュルンベルク裁判の期間は46年10月までの1年足らず(死刑は12人)で、東京裁判はニュルンベルク裁判と比べて長期の裁判となった。

 その理由は、裁く側がニュルンベルク裁判は4カ国(米英仏ソ)だったのに比べて、東京裁判は11カ国(米国、英国、中華民国、ソ連、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、フランス、インド、フィリピン)にも及んだことがある。さらに東京裁判では、訴因(犯罪の具体的事実)が55項目(ドイツは4項目)もあったことが大きい。公判は東京・市ヶ谷の旧陸軍省や参謀本部のあった場所(現防衛省)につくられた法廷で開かれた。46年1月19日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥の名で発せられた「極東国際軍事裁判所条例」によって定められた枠組みによって裁判は行われた。

マッカーサーが43人の第1次逮捕命令

  45年8月15日から東京裁判開始までの経過をたどるとー。8月15日に「昭和天皇の玉音放送」があり、9月2日に東京湾の戦艦ミズーリで日本と連合国の降伏調印式が行われ、終戦を迎えた(国際的には、日本の終戦は9月2日)。

 GHQ(連合国軍総司令部)による日本の占領の内容は①武装解除と軍国主義の抹殺②戦争犯罪人の処罰③個人の自由と民主主義の助長④経済の非軍事化⑤平和的経済活動の再開⑥労働・産業・農業における民主主義勢力の助長⑦在外資産の処分と返還ーなど各分野に及んでいた。マッカーサーによる日本統治は、トルーマン大統領と朝鮮戦争をめぐって対立し解任される51年⒋月1日までの5年8カ月にも及んだ。

 日本が45年8月14日に受諾した7月26日のポツダム宣言第10項には「われわれは日本人を民族として奴隷化しようとし、または、国民として滅亡させようとする意図を持つものではないが、われわれの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重な処罰を加えられるべきである」とある。東京裁判は、これに基づいて行われた裁判だったことは明記しておきたい。

 マッカーサーは45年9月11日、早速43人の戦犯容疑者の逮捕を命じた。これらの容疑者は太平洋戦争開戦時の東條英機内閣の閣僚たちが中心だった。この第1次逮捕には、日本人以外にフィリピン人3人、オーストラリア人2人、ドイツ人3人、オランダ人、タイ人、米国人各1人が含まれている。

東條の自決企図は戦陣訓に反すると新聞が批判

 東條は41年1月、陸軍大臣の時に示達した「生きて虜囚の辱めを受けず」とする「戦陣訓」を出した。「戦陣訓」は「日本軍は絶対に捕虜になってはならない」と国民に受け止められていた。だから、当時の新聞は東條の「自決の失敗」はこれに反すると批判した。

 保阪正康の「東京裁判の教訓」(朝日新書)によると、逮捕の前日に、東條は下村定陸相に呼び出され、「あなたは自決しないでほしい。これから行われる軍事裁判であなただけが天皇に戦争責任がないことを証言できる」と説得され、これを受け入れた。逮捕に赴いたMPがアジア系の米国人だったため、東條がこのMPを日本人と勘違いし、イタリアのムッソリーニの市民による処刑などが頭によぎり、ただちに処刑されるのではとの恐怖心から自殺を図ったとされる。東條は横浜の米軍病院で手術を受けて助かった。

 このあと、東條は東京・大森の大森俘虜収容所に移された。このときのA級戦犯容疑者は東條のほか、東郷茂徳元外相、嶋田繁太郎元海相、賀屋興宣元蔵相、岸信介元商工相、寺島健元逓信相、岩村通世元法相、鈴木貞一元国務相らの東條内閣の元閣僚で、橋田邦彦元文相、小泉親彦元厚相の2人は逮捕を前にして自殺した。

 9月19日には、荒木貞夫、本庄繁、小磯国昭、真崎甚三郎、南次郎などの陸軍のトップ級の軍人リーダーや松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使など外交官を含め11人に出頭が命じられた。

近衛元首相も服毒自殺、天皇の側近木戸幸一元内大臣も逮捕

 こうしてGHQのCIC(対敵諜報部)による戦犯容疑者逮捕命令が45年12月6日までの第4次にわたって続けられ、逮捕者は100人を超えた。逮捕者の選定は「なぜこの人が」と関係者が首をかしげるような人も含むかなりずさんなものだったといわれている。

 12月6日に逮捕命令が出たのは、近衛文麿元首相や天皇の側近の木戸幸一元内大臣ら9人。近衛は出頭日前日の12月16日未明、東京・荻窪の自邸で服毒自殺した。近衛は摂政・関白の家柄である五摂家筆頭の家に生まれ、東條の前に3度にわたり内閣を組織した。37年6月からの第1次内閣では7月7日の日中戦争の発端となった盧溝橋事件が発生。38年には、「蒋介石の国民政府を相手にせず」と宣言して日中戦争を泥沼化させた。

【盧溝橋事件】1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で夜間演習をしていた日本軍が、実弾の射撃音を聞いたとして近くの中国軍と戦闘になった事件。日本政府は当初、不拡大の方針を唱えたが、旧陸軍の強硬派に引きずられ、日中の全面戦争の発端となった。(朝日新聞キーワード)

 この年には国家総動員法も成立させた。40年7月からの第2次内閣では、陸軍におされて東南アジアへの「南進政策」を推し進め、9月には日本軍が北部仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナムなど)に進駐、同月、日独伊の3国同盟を締結、大政翼賛会を作り,41年⒋月には日ソ中立条約締結。そして7月28日には日米戦争の引き金となる日本軍の南部仏印進駐が行われた。同年10月には日米交渉が続く中で内閣を投げ出し、10月18日には東條内閣に引き継いだ。

 近衛には、3次にわたる内閣の間に日本が戦争への道を突き進んでいったことに当然、大きな責任があった。しかし、なぜか近衛は自分が逮捕されるとは思っていなかった。戦後直後の東久邇稔彦内閣に国務大臣として入閣、憲法改正に意欲をみせていた。「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、裁かれなければならないのには耐えられない。僕の志は知る人ぞ知る」との遺書を残していた。

つきまとう事後法との批判

  終戦前の45年8月8日、米英仏ソの4カ国が締結した「ロンドン協定」によって戦争犯罪の概念として捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」に、これまで国際法にはなかった「平和に対する罪」(侵略の罪)と「人道に対する罪」が付け加えられた。1928年のパリの「不戦条約」で「侵略戦争」は違法とされたことが根拠とされている。

 ニュルンベルク裁判も東京裁判もロンドン協定に基づいて開設された。罪刑法定主義からみて対象となる行為が犯罪とされていなかった場合、事後につくった法律で罰することは本来禁じられていた。これがいわゆる「事後法」である。だから、二つの国際戦犯裁判には常に「事後法」との批判がつきまとう。マッカーサー元帥や英国のチャーチル首相も元々は、戦犯の「即決処刑」を主張していたほどである。

 それが二つの裁判ともこの「事後法」で裁かれることになった。国際軍事裁判所条例では、「平和に対する罪」(侵略の罪)を「A級戦犯」、「通例の戦争犯罪」のみで逮捕された人々を「B級戦犯」、「人道に対する罪」を侵したものが「C級戦犯」と呼ばれた。これはあくまでも罪の重さではなく、犯罪の分類にすぎないことに注意したい。

 東京裁判では、その他の戦犯容疑者と区別するため「A級戦争犯罪人容疑者」とした。その他の戦争犯罪人は「BC級戦犯容疑者」と呼んだ。「人道に対する罪」はナチスによる自国民へのホロコーストが対象だったため、東京裁判では事実上、「C級」はいなかったが、一括して「BC級戦犯」と呼んでいる。

一網打尽の「共同謀議罪」適用も問題に

 「事後法」とともに問題とされたのが「共同謀議」(Conspiracy)という概念である。英米法の概念で、2人以上の人間が、何らかの犯罪の実行に合意し、そのうちの最低1人が何らかの行動を起こせば、計画に合意した全員が処罰の対象となるという「一網打尽」(粟屋憲太郎「東京裁判への道」=講談社学術文庫)の法律である。安倍内閣の時にできた「共謀罪」も同じ発想から出ている。

 連合国は43年10月、ドイツや日本を裁くためにロンドンに連合国戦争犯罪委員会を設置して活動を始めた。英国などは法律問題が複雑であるとの理由で「裁判方式」で裁くことに反対していた。しかし、スチムソン米陸軍長官らが「共同謀議罪」導入を強く主張、結果としてこれが採用された。個々の犯罪立証は必ずしも必要でなく、犯罪全体の計画に何らかの関与があれば、それで容疑は十分とするものである。

検察陣率いるキーナンが28人の被告人選定 

 45年12月6日、ジョセフ・キーナンら19人の検事を含む米検察陣38人が来日。12月8日、マッカーサーはキーナンをGHQの1部局としての国際検察局(IPS)の局長に任命し、キーナン検事が首席検察官として東京裁判の検察陣を率いることになった。検事には米国のほか、英国、中国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、フランス、フィリピン、ソ連、インドの各国がそれぞれ1名を派遣した(フィリピン、インドの検事は到着が遅れた)。

 キーナンは、検察局要員をAからHまでの八つの作業グループに分けて、裁判の準備、A級戦犯容疑者への尋問などにより被告人の選定作業を進めた。その対象期間は28年1月1日(この年「張作霖爆殺事件」があった)から45年9月2日のミズーリでの降伏調印式までである。

【張作霖爆殺事件】1928年6月4日、旧満州(中国東北部)の奉天(現・瀋陽)郊外で、中華民国(北京政府)で当時の最高位、陸海軍大元帥だった張作霖が、線路に仕掛けられた軍用火薬で車両ごと爆殺された。田中義一内閣は実行犯の厳罰を昭和天皇に約束したが、陸軍の圧力に屈し、首謀者だった元関東軍参謀・河本大作大佐を、警備の不備を理由に停職にするなど、処罰を行政処分にとどめた。昭和天皇は激怒し、内閣は翌年7月2日に総辞職。事件は陸軍が独断専行を重ねる契機になったとされる。(朝日新聞キーワード)

 AからCまでは、年代順位に分け、それぞれの期間内の「平和に対する罪」に関する政策を検証して被告を確定する作業を行うことにした。Dは財閥、Eは超国家主義団体、Fが陸軍軍閥、Gは官僚とそれぞれのグループが被告予定者の選定を行った。Hグループは日本政府の資料調査で、被告の選定作業には関与しなかった。

 Hはその後、各国代表団の到着を受けて、46年3月、執行委員会と三つの小委員会が設置され、英国のコミンズ・カー検事が執行委員長となった。委員会での議論等、様々な経緯を経て、最終的には28人の被告人を選定し、同年4月29日、28被告に起訴状が手渡された。大森俘虜収容所の東條ら戦犯容疑者はこの日に全員が巣鴨拘置所{スガモプリズン」に移された。東京・東池袋のサンシャインビルはこのスガモプリズン跡に建てられたものである。

「占領政策の遂行上、天皇が不可欠」とマッカーサー

 昭和天皇の処分をどうするかー。
 東京裁判にとっての最大の課題だった。保阪の「東京裁判の教訓」(朝日新書)によると、米国側の史料では、国務省・陸軍省・海軍省の3省調整委員会(SWNCC)は45年10月22日、マッカーサーに対して「天皇にどのような態度をとるのか、軍事裁判にかけるのが妥当かどうか」の回答を求めた。つまり、米国としてはマッカーサーにこの問題は一任していた。マッカーサーが本国に回答したのは、それから約3カ月後の46年1月25日だった。マッカーサーは「天皇の責任は問うべきではない」と連絡した。「昭和天皇免責」が事実上、決まった。

 天皇はこれに先立つ45年9月27日、マッカーサーを訪問(第1回天皇マッカーサー会談=計11回続く)。会談での天皇の姿勢などからマッカーサーはこのときに天皇に良い印象を描き「占領政策の遂行上、天皇が不可欠」と判断した。(日暮吉延「東京裁判」=講談社現代新書)。

 46年1月1日には天皇の神格化を否定する「人間宣言」が出た。「人間宣言はGHQが発想し、原文を書いた」(高橋紘「人間天皇」=講談社)といわれる。マッカーサーは「天皇免責」の根拠として「終戦までの天皇の国策への関わり方は、大部分が受動的なものであり、輔弼(ほひつ)者(天皇の行為について天皇を助け、全責任を負うもの)の進言に機械的に応じるものであった」とした。その上で「もし、天皇を訴追したら、米国は160万人の軍隊と数十万の行政官を送らねばならず、戦時の補給体制が必要になるだろう」と回答した。
 
 この回答が決め手となって天皇は訴追を免れた。この回答の1週間前にマッカーサーは東京裁判を行う裁判所条例を発していたが、この条例は先例のニュルンベルク裁判を行う根拠となった「国際軍事裁判所憲章」とはやや異なっていた。憲章にはあった被告人の公務上の地位について「国家の元首であること」の言葉が削られていた。つまり裁判所条例ができたときから天皇を免責することは決まっていたといえる。むしろ「条例の作成そのものが〃天皇を裁かず〃を前提としてつくられていた」と保阪は指摘する。

 では他の連合国はこの問題についてどのように考えていたのか。日暮の「東京裁判」によると、英国は占領コスト削減の観点から「天皇を戦犯として起訴することは、重大な政治的誤り」と考えて、オーストラリアにその考えを伝えていた。

天皇の戦争責任問題表面化しかねない証言をした東條

 オーストラリアは天皇制の将来は日本国民が決めることは認めていたが、「昭和天皇が安泰だと、日本人は絶対に変わらない。旧体制を打破するのには天皇を有罪にしなければならない」と考えていた。ニュージーランドは46年初めには天皇訴追に否定的だった。しかし、占領開始から半年以上たち、天皇不起訴が固まりつつある中で、オーストラリアは天皇の免責方針に同意した。日暮によると、予想に反してソ連は天皇の訴追を求めなかった。

 キーナンは46年6月、帰米中に「天皇不起訴」の決定を無断で発表した。また、47年12月31日、東條を法廷で尋問した際に、東條に、キーナンの意図とは異なる昭和天皇の戦争責任問題が表面化しかねない証言をさせてしまった。しかし、翌48年1月6日、キーナンは軌道修正を図り、最終的に東條から「開戦は天皇の意思ではなかった」との天皇の戦争責任を明確に否定する証言を引き出して決着させた。キーナンには、少し早とちりのくせがあったようである。天皇の戦争責任をめぐっては、法廷の内外でこのような〃ドラマ〃もあった。

(注) 本稿は保阪正康氏「東京裁判の教訓」(朝日新書)、日暮吉延氏「東京裁判」(講談社現代新書)、「日本近現代史講義」(中公新書)の日暮論文「東京裁判における法と政治」、粟屋憲太郎氏「東京裁判への道」(講談社学術文庫)、高橋紘氏の「人間天皇」(講談社)などを参考にした。