いまなぜ「石橋湛山」か  混迷の時代に学ぶべき気骨の政治家 「小日本主義」に新たな光彩を 与野党議員が研究会設立

投稿者:

 永田町で、超党派の議員連盟、「石橋湛山研究会」が会合を重ねている。設立されたのは昨年6月。 共同代表は岩屋毅外相(自民)、古川元久元国家戦略担当相(国民)、篠原孝元農水副大臣(立憲)の3人だ。石破茂政権からは石破首相、岩屋外相、村上誠一郎総務相ら7閣僚が参加する。石破氏はもともと「湛山ファン」で、就任前に出版した著書「保守政治家」でも「気骨のリベラリスト、混迷の時代こそ石橋湛山に学ぶべきことは多い」と言う。

勇気ある発言

 共同代表の岩屋外相は、議連設立の経緯について、「トランプ政権の米国ファーストは、新しい資源外交の時代に逆戻りするような勢いだ。BRICSやグローバルサウスなど新興プレーヤ―の登場も著しい。激動する世界秩序の中で日本はどうかじを取り切り開いていくか、そこで思いついたのが石橋湛山だった」という。               

 日本は明治維新後、国際社会に登場して以来、国を挙げて欧米列強に追いつき追い越せだった。日清戦争(1894~95年)に勝つと、国を挙げて大国主義に酔いしれ、さらに植民地の獲得に乗り出した。こうした動きに危険を感じた湛山は1921(大正10)年7月、「東洋経済新報」の社説に「一切を棄(す)つるの覚悟」、「大日本主義の幻想」を相次いで発表。これらで「小日本主義」を主張した。                            

 朝鮮(当時)や関東州(現中国東北部の遼東半島南端にあった日本の租借地)、台湾などの植民地はやがて民族独立の動きが出てくるから、今のうちに放棄して日本は四島の中で、外交貿易に力を入れて国を富ましていくべき道筋を考えるべきだと主張した。当時の社会の空気の中で考えると、勇気ある発言だったというべきだろう。              

 「小日本主義」は、エネルギーや食糧など多くを諸外国に頼る日本としては、日々考えなければならないテーマだ。新たな光彩を当てなければならない。第一次世界大戦で、日本の青島領有は中国国民の恨みを買ったばかりでなく、欧米列強が警戒心を高め、日本は山東問題で国際紛争にのめり込んでいく。       

 この論文は湛山の名を高らしめたが、東条英機内閣からは厳しく監視されることになる。湛山はそれでも、故事や格言を引用するなどして表現に工夫を凝らして筋を通そうとした。

「大事なことは国民生活」

 日本の行く末に思いをはせながら、湛山は経済産業と国民生活を考えた。戦争よりも貿易や産業を活発にして、国や国民を富ますということが政治の本領と考えている。「所得が増え個人消費も伸びれば、経済も好転する。軍事、経済や産業は大事だが、国民生活を豊かにすることは、もっと大事なことだ」とたびたび口にしている。                  

 データを踏まえながら、現実を直視して見通しを立てるという姿勢は、学生時代に師事した哲学者、田中王堂からジョン・デューイのプラグマティズム(抽象的な理論よりも実践的な問題解決能力を重視する)を直伝されたからだといわれる。また言動に一種の頑固さがうかがえるが、それは、実家が日蓮宗の古刹で子供の時から「正しいと信じたことには敢然として立ち向かう」という教育を受けたところにあるとされる。

微妙に変わる植民地に対する考え

 日米関係について湛山は「米国とは緊密な協調を保っていくが、米国にも率直な要求をし、わが国の主張にも耳を貸してもらう。気まずい思いをしても、それはかえって緊密を増すための手段になる」と説いた。こういうところはプラグマティズムの本領といえそうだ。ただ歯切れがよかった湛山節も、1932年の上海事変の頃から「残念ながら支那人には果たして自国を統治する能力あるや疑われないでもない」とか、植民地についても「日本は利己主義一点張りの冷血国であるかに解せられかもしれぬが、しかしこれが粉飾を除いた世界の実情であるから仕方がない」と微妙に変わる。国を挙げて戦争の真っただ中に、それに正面から反対し続けることは難しいことだったのだろう。 

 湛山はどんな時にでも国民生活や経済、産業を中心に考えている。民族主義やナショナリズムがなくならなくても、産業を活発にすることで民族主義は抑えられるという確信があったように思われる。明快な湛山節については理路整然、論理明快だが、現実離れしていると冷ややかに見る人たちもいたらしい。今湛山が存命ならば、トランプ・米大統領やプーチン・ロシア大統領、中国の習近平国家主席にも会いに行ったのではないか。

戦後復興と高度成長を方向づける

 湛山は戦前は言論人として、戦後は戦争で破壊され尽くした日本経済の復興と経済成長に取り組んだ。第1次吉田茂内閣の蔵相として、まず安定した雇用環境、格差の問題、付加価値の高い技術や商品、アジアとの関係改善を軸に据え、積極財政で経済復興に努める。    

 まず池田勇人氏を事務次官に据え、首相になると、今度は蔵相に起用して石橋―池田のコンビで難局を乗り切ろうとした。湛山は「池田は俺の弟子だ」と冗談交じりによく言った。宮沢喜一元首相は、池田首相の秘書官だったが、「石橋の積極経済論が戦後日本の経済復興と高度成長を方向づけた」とはっきりと言っている。さらに国民生活重視でいえば、軍事費を抑えて所得倍増論を提唱した池田、列島改造論と日中国交回復の田中角栄首相と、どこかでつながりがある感じがする。

                             (了)